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兵庫県相生市 感状山城跡

Kanjosan castke ato,Aioi city,Hyogo

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February 9,2020 大野木康夫 source movie

所在地 兵庫県相生市矢野町瓜生・森

国指定史跡「赤松氏城跡」の一部

相生市ホームページの解説

感状山城は、相生市矢野町瓜生と森にまたがる標高301.05mの感状山の尾根上に築かれていました。
規模が雄大で眺望がよく、人の手による破壊などもなく、石垣や建物跡・礎石、井戸跡などの遺構が比較的よく残されているといった点では、播磨地方の代表的な中世山城の遺構であります。

歴史
感状山城が築かれたれた時代は、『播磨古城記』『岡城記』などによると,鎌倉時代(1192年~1333年)に瓜生左衛門尉が築いたとする説と、建武3年(1336年)赤松円心の三男赤松則祐(そくゆう)が築いたとする説があります。
建武年間(1334年~1336年)、足利尊氏の追討をしていた新田義貞の率いる軍勢を赤松円心の三男則祐が奮戦し50余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏の反撃の機会を与えることとなったことは歴史上有名です。
この功績により足利尊氏が,赤松則祐に感状を与えたことから感状山と呼ばれるようになったといわれています。
感状山城は総石垣による曲輪の構えから考えると,当初からのものではなく、後世に手を加えたもので、戦国時代(1467年~1568年)にこの周辺を支配した宇喜多(浮田)氏の手によって改修されたものではないかという説もあります。

Ⅰ曲輪
Ⅰ曲輪(くるわ)は、標高301.05m、城の―番奥の北隅にあり、姫路城などでいう近世の本丸に相当し、城のなかでも最も重要な箇所にあたります。
南側斜面は地山の岩盤に自然石を組みあわせた石垣により囲まれています。
曲輪内には、建物跡の礎石 (基礎の石)や排水溝と思われる横一列に並んだ石組みが発掘調査により発見されています。
この礎石の配列から敷地いっばいに本丸御殿が築造されていたと推定されています。
また曲輪内の中央より建物の柱穴(ちゅうけつ)が発見され、この中の底部から稲籾と16枚の銅銭、小皿が出土しました。
これは、建物を建てるときの宗教的な意味を持つ「地鎮」ではないかと考えられています。

II曲輪
II曲輪は、標高296m、北II曲輪と南II曲輪の二つの曲輪によって構成されています。
全体は石垣により支えられ、やせ尾根上を最大限に利用し、また西側は犬走りと呼ばれる3~4m幅の帯曲輪(帯状の曲輪)が配置され、敵が侵入しにくいような工夫がされています。
南II曲輪では、隅櫓(すみやぐら)と大規模な建築とみられる礎石群が発見されています。
隅櫓は、見張りを目的とした建物であったと推定されています。
また大型の建物は広間を中心に多くの小部屋をもっており、Ⅰ曲輪が本丸御殿に対して、II曲輪は、常の御殿(日常生活をしている場所)の建物の可能性があり、建築の時期は柱の間隔から十六世紀末頃ではないかと推測されています。

南曲輪群
曲輪群は、自然の尾根を利用して、六つの削平地(山を人工的に削り平らにしたところ)を階段状に造っています。
この曲輪群は、大手門から本城へ侵入する敵を防ぐための要所となつています。
特に注目されるのが、二段目の腰曲輪の石垣で、感状山城跡の中でも最も大きな石垣であり、
保存状態もよく全長21m、高さ4.5mの規模を持っています。
感状山城跡の石垣の構築方法は、「野面積み(のづらづみ)」といわれ、自然石を30cm角のものから、大きいのは1mあまりのものを使い、―見粗雑に積み上げたような構造となっています。
近世の城に見られるような隅(角)を直角にする技法ではなく、いずれも鈍角でゆるいカーブを描くことで処理しています。
これらの石積みから石垣づくりの城郭としては初期のものであると推定されています。

III曲輪群
感状山の中腹に、近世の城の三の丸に相当するIII曲輪群があります。
この曲輪群は約1mの石垣の断差をもち、
七段で構成されており、周囲には犬走りが配置され、感状山城の特徴を形づくっています。
このIII曲輪群には、南北約7m、東西約8mの正方形に近い建物遺構が発見されています。
この建物の周囲には方塼(ほうせん)といわれる瓦が縦に埋められていて、その内側に礎石が配列されています。
これは、防火と防湿とともにねずみなどの小動物が建物内に侵入するのを防ぐため設けられたものと考えられ、食糧などを保管する倉庫跡とみられています。
またこの近くには、備前焼の六甕九個が発掘調査により検出されており、大甕の底部についていたものを鑑定した結果、イノシシの塩漬肉に近いものが貯蔵されていたことが確認されています。
この附近は城の台所に相当する場所ではないかと考えられています。

大手門跡と井戸跡
大手門は、総石垣造りで、登り口の石段を中心に鳥の翼を広げた様な形に石垣が配列され、念入りに造られています。
石段は六段あり、登り口は広く上部へ上がるほど狭く造られていて、大人数で―斉には上がれないような工夫がされています。
両翼に伸びた石垣は、半円形に張出した形になっていて、敵に横から矢が射かけられるような仕組みになっています。
また、ここには握りこぶし大の石が多くみられ、これは、戦国時代の伝統的な戦法の「つぶて」として用いられたと考えられています。
井戸は箱型の石組で、底には粘土をひいた跡があります。
真夏でも水深30cm程度の水があり、涸れることはないといわれています。
また地元ではこの井戸について、感状山城が落城したときにまつわる伝説なども残されています。

感状山城は相生市北部の旧矢野村の感状山の山上に位置する山城です。
赤松氏が築いたものですが、総石垣であることから、後世(戦国末期から元亀天正)に修築されたのではないかとも言われています。
麓の登り口は羅漢の里と呼ばれる公園で、登り口近くには駐車場もあります。

駐車場付近
    


登り口周辺
       


登り口から階段下部へ
      

階段
          


物見岩コースと大手門コースの分岐点

階段の下から15分足らずで着きます。
 


物見岩コース

少し急な坂が続きます。
                 


物見岩周辺

麓からゆっくり撮影しながら登って30分弱でした。
石積のようなものも見られます。
               


III曲輪群

石垣が点在しています。
                                                  


井戸・大手門方面へ下る

荒れ果てていますが、石垣が点在しています。
                                                                                                

III曲輪に戻る
  


南曲輪群へ
          


南曲輪群の石垣

よく残っています。
門跡のようなものや高石垣もあります。
                                                                   


II曲輪

周囲の石垣がよく残っています。
                                                  


I曲輪

石垣の跡や段曲輪がよくわかります。
眺望もいいです。
                                    


II曲輪
                            


南曲輪群
         


帰路

南曲輪群から登り口まで25分でした。
              


感状山遠望
 

 


Feb.24,2017 瀧山幸伸 source movie

赤松氏城跡 国史跡

感状山城(かんじょうさんじょう)は現在の兵庫県相生市矢野町瓜生に存在していた日本の城。「赤松氏城跡」の一部として国の史跡に指定されている。

新田義貞の軍勢を50余日にわたり足止めをした功績により、赤松則祐が足利尊氏に感状を授かったことに由来する。

誰がいつ築城したかはっきりしておらず、いつ落城したかもわかっていない。

築城については以下の説がある。

鎌倉時代に瓜生左衛門尉が築城した。

南北朝時代の初期に赤松則祐が築城した。

落城については以下の説がある。

南北朝時代後期の新田義貞の播磨攻めの時に赤松則祐が焼いた。

1577年に羽柴秀吉の上月城攻めの時に落城した。

(wikipedia)

       

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