兵庫県明石市 本松寺
Honshoji,Akashi city,Hyogo
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September 13, 2020 野崎順次 source movie
兵庫県明石市上ノ丸1-17-18
日蓮宗 本松寺
(Honshoji Temple, Akashi City, Hyogo Pref.)
歴史と概要
人丸山の西坂を上がっていき、右手に古びた石階段や山門が見えると日蓮宗本松寺で、続いて鎮守「妙見宮」がある。本堂を正面に番神堂、納骨堂(もと鐘楼)、庫裏と並んで建つ本松寺は、「谷の妙見」また「萩の寺」とも呼ばれている
慶長元年(1596)、秀吉の家臣、藤井新右衛門勝介の寄進による創建で、当時は舟上城下にあり、「本正寺」という寺名であった。慶安四年(1651)の藩主松平忠国の黒印状には、「本正寺二八石六斗ト畑一反二畝ヲ贈ル」とあり、貞亨三年(1686)には、松平直明が「本松寺」に同高を贈ったという記録があり、この頃、寺名が変わったようである。
元和三年、小笠原忠政の明石城築城により、町の中心も明石川以東へと移転してきたのに伴い元禄四年(1691)に現在地に移ってきた。
現在本松寺のある場所は、全久山東長寺があった跡で、その後、三乗寺、さらに清水寺が入り、移転当時は空寺になっていたという。記録に「大蔵谷の分、空寺」とあり、今も東の谷を東長寺谷と呼んでいる。
(西桂「兵庫県の日本庭園 歴史と美を訪ねて」2004年より)
本松寺庭園
本庭は、古くより宮本武蔵の作庭と伝わる。明石城の築城当時は、古図から見て三乗寺時代であり、武蔵の作庭となると旧三乗寺時代の庭園ということになる。
庭園構成と特徴
庭園は庫裏書院の庭となっている枯池式枯山水庭園である。現在の本堂が庭に接近しすぎているなど、伽藍の位置と庭園とが必ずしも合致しないところがあるのは、庭園が先に造られ、後から建物が建ったからである。
庭園構成は、浅い枯池を穿ち、本堂を背にして軽い築山を二重に築き、それぞれ築山の二ヵ所に枯滝を配置する。左手奥に大滝(雄滝)を、右手前に小滝(雌滝)と組み、それぞれに遠山石を立て水分石を下部に配石するなど、立面的でゆったりとした庭園構成としているのが特徴である。
池泉は瓢箪型で、石橋が二ヵ所に架かる。池に架かる橋はもとは櫟造りの木橋であった。護岸石組は小振りであるが、池泉手前の出島を亀出島の石組としているのが興味深い。
もと城の外堀が本松寺の西側に位置しており、このあたりは、南側は武家屋敷、北側は足軽屋敷が連なり、近くに武蔵が住んでいたと伝わっている。全体的に小振りの石組であるが、平面構成を重視し、視点の移動にょる変化を考慮した作庭といえよう。
(西桂「兵庫県の日本庭園 歴史と美を訪ねて」2004年より)
ジャイアント馬場のお墓
日本を代表する人気プロレスラーだったジャイアント馬場(本名・馬場正平)さんが亡くなってちょうど20年となる31日、兵庫県明石市上ノ丸1の本松(ほんしょう)寺にある馬場さんの墓前に、愛用したリングシューズ(サイズ34センチ)の実物大モニュメントと馬場さんのイラストを刻んだプレートが完成した。馬場さんが「第二の古里」と愛した明石に、また一つ大きな"足跡"を残す。(小西隆久)
(神戸新聞NEXT 2020.9.15.より)
近くに亀の水遺跡がある。
Feb.9,2016 中山辰夫
明石市上ノ丸1丁目17−18
宗派:日蓮宗
本末寺は又の名を「谷の妙見」 「萩の寺」とも呼ばれ正面に古びた石階段、巨石の御首題碑、山門と続く。本道を正面に番神堂、納骨堂、庫裏が並ぶ。
本末寺は1596(慶長元年)に豊臣秀吉の家臣藤井与次兵衛勝介が林崎の船上城下に建立した。
1617(元和3)年小笠原忠政が信州松本から明石に移封され、現明石城の築城、それに伴い町の中心も明石川以東に移った。本寺も現在の地に移った。
この明石城下の町割りには、小笠原家の客分であった宮本武蔵もかかわったとされる。
本松寺庭園
枯池式枯山水庭園 作庭時期:江戸時代前期 (伝 宮本武蔵 作庭)
宮本武蔵の作庭とされる庭園は、平成15年に復元された明石公園、旧明石藩下にある福聚院、円珠院、雲晴寺などにある。
鎮守 妙見宮
本末寺の直ぐ近くにある。
毎年4月中旬頃より5月初めまで、社苑のツツジが咲き乱れる花の名所。
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