兵庫県尼崎市 長遠寺
(Jo-onji Temple, Amagasaki, Hyogo)
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尼崎市寺町10 長遠寺 本堂 重文 近世以前/寺院 江戸前期 元和9(1623) 桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺 棟札2枚 19740521
尼崎市寺町10 長遠寺 多宝塔 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長12(1607) 三間多宝塔、本瓦葺 棟札5枚 19740521
November 13,2021 大野木康夫
source movie
所在地 兵庫県尼崎市寺町10
本興寺から徒歩で3分ほどです。
門前風景
【国指定文化財等データベースから引用】
日蓮宗の寺。本堂は入母屋造、本瓦葺の五間堂で、多宝塔は規模は小さいが形態がよく整っている。
近世初頭の本堂と塔がセットで残る遺構として重要。
本堂(重要文化財)
元和9(1623)年の建築
桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺
部分撮影
多宝塔(重要文化財)
慶長12(1607)年の建築
三間多宝塔、本瓦葺
部分撮影
鐘楼
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January 26, 2020 野崎順次
兵庫県尼崎市寺町10
日蓮宗
大堯山 長遠寺(ぢょうおんじ)
(Dyo-onji Temple, Amagasaki City,
Hyogo Pref.)
大本山本圀寺(六条門流)の旧末寺であり六条門流三長(他に長満寺、長源寺)の一寺。親師法縁。塔頭として中正院がある。
(中略)
『大堯山縁起』では、1350年(観応元年)永存院日恩により七ツ松の地で創建され、のちに風呂辻町・辰巳(巽)・市庭(市場)(すべて、現・東本町の地名)の地へ移転したと伝えられる。長遠寺は、風呂辻町の南側にあったと推定されている。西側は当時の尼崎の中心として賑わった市庭である。七堂伽藍と子坊16坊を持っていたという。
法花寺と呼ばれていたが、1617年(元和3年)に尼崎城築城にともなって現在地に移転した際、寺号を現在のものに改めた。
(ウィキペディア「長遠寺(尼崎市)」より)
文化財指定建物の説明は尼崎市公式ウェブサイトより引用。
寺町の通りと山門
国重文 本堂 元和九年(1623)
桁行五間、梁間六間、入母屋造り、本瓦葺きで正面中央一間に 向拝 を設けています。
本堂の細部
国重文 多宝塔 慶長十二年(1607)
上層は12本の円柱を円形に建て、下層は方三間、周囲に擬宝珠高欄付きの縁をめぐらせ、縁の下には 亀腹
(かめばら)と呼ばれる四分円形の白の漆喰塗りの土壇が築かれています。
多宝塔細部
県文 鐘楼 寛永14年(1627)に建立後、寛延3年(1750)に屋根の葺き替え等
桁行三間、梁間二間、袴腰付き、入母屋造り、本瓦葺
県文 庫裡 寛文八年(1668)
桁行七間、梁間六間、切妻造り、本瓦葺のほぼ正方形の建物で、妻正面に大戸口を開けて、8畳3室、6畳3室、12畳1室と台所、土間で構成されています。
県文 客殿 桃山 慶長十六年(1611)宝永4年(1707)10月4日の大地震で倒壊
桁行七間半、梁間五間半、入母屋造り、平入り、本瓦葺
その他境内、本堂回り
山門横、妙見堂あたり
帰途、梅などをフラッシュ撮影してみる。
July 2012 野崎順次 source movie
撮影日: 2012年7月1日
阪神尼崎駅から寺町に行きます。
山門
国重文 本堂 江戸前期 元和九年(1623)
桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺
国重文 多宝塔 桃山 慶長十二年(1607)
三間多宝塔、本瓦葺
県文 鐘楼 江戸前期 寛永十四年(1627)
桁行三間、梁間二間、袴腰付き、入母屋造り、本瓦葺
その他境内
帰途
参考資料
尼崎市教育委員会 尼崎の文化財HP
国指定文化財等データベース
兵庫県尼崎市寺町10
大堯山 長遠寺(だいぎょうざん ぢょうおんじ)
撮影日: 2010年7月
阪神尼崎駅から寺町に行きます。
長遠寺は大堯山(だいぎょうざん)と号する日蓮宗寺院で、観応元年(1350)、永存院日恩によって七ツ松に創建されたと伝えられています。
その後、尼崎町の巽(辰巳)に再興され、法花寺と呼ばれていましたが、元和3年(1617)、尼崎城築城にともない現在地に移転しました。
元亀3年(1572)の織田信長の「禁制」には「摂州尼崎内市場巽長遠寺」とあり、戦国時代の末期には現在の東本町2丁目あたりにあったことが分かります。
重要文化財 本堂
本堂は、桁行五間、梁間六間、入母屋造り、本瓦葺きで正面中央一間に向拝を設けています。建立年代は慶長3年(1598)及び元和9年(1623)の棟札がありますが、昭和56〜58年の修理により元和9年の建築であることが明らかになり、現在地建築であることが確認されました。 構造形式は、正面に3段の木の階段をすえ、擬宝珠柱(きぼしばしら)をあて登高欄(のぼりこうらん)つき、縁は四周につけ擬宝珠高欄を置く。向拝柱は面取り角柱、主屋柱は円柱。
境内
重要文化財 多宝塔
方三間2層、本瓦葺きの建物。多宝塔とは仏塔の一形式で、本来多宝如来を安置する塔のことです。慶長12年(1607)東町(旧市場巽)の旧境内地に正面を西に向けて建てられました。その後元和3年(1617)に尼崎城築城にともない現在地に移転しましたが、その際多宝塔の正面を東に向けて建て直されたことが、阪神・淡路大震災後の保存修理の際の解体によって判明しました。多宝塔の上層は12本の円柱を円形に建て、下層は方三間、周囲に擬宝珠高欄付きの縁をめぐらせ、縁の下には亀腹(かめばら)と呼ばれる四分円形の白の漆喰塗りの土壇が築かれています。内部は来迎柱(らいこうばしら)を立てて来迎壁、須彌壇(しゅみだん)を設け、正面には釈迦如来が祀られ、その両側には千躰の仏像が安置されています。須彌壇には「天女の図」、南側扉内側には「如来像」、北側扉内側には「愛染明王像」・「不動明王像」が描かれています。
県指定文化財 鐘楼
多宝塔の北側に隣接して建てられている、桁行三間、梁間二間、袴腰付き、入母屋造り、本瓦葺で東面する建物で外観は各部のつりあいがよく整っています。棟札から寛永14年(1627)に建立後、寛延3年(1750)に屋根の葺替え等を行っていることが分かります。
柱円柱、台輪をすえ、内法長押を打ち、側面中央にのぞき 連子を納めています。二手先の組物、 蓑束など細部の様式手法は本堂や多宝塔と同様で、桃山時代の特徴を示しています。
境内
県指定文化財 庫裏
桁行七間、梁間六間、切妻造り、本瓦葺のほぼ正方形の建物で、妻正面に大戸口を開けて、8畳3室、6畳3室、12畳1室と台所、土間で構成されています。本堂の背後に位置し、西側の客殿との間には中庭を設け、渡り廊下によってつながっています。平成5年に行われた部分修理の際、南妻の 懸魚裏面に寛文8年(1668)の墨書が見つかり建立年代が明らかになりました。特に注目すべきところは、正面の妻飾りが禅宗の庫裏のそれに似たものを示している点であると云われています。平成7年の兵庫県南部地震では大きな被害を受けたため屋起こし補強工事をおこないましたが、後世の抜本的な保存修理事業が待たれます。
庫裏から客殿の方へ。
県指定文化財 客殿
桁行七間半、梁間五間半、入母屋造り、平入り、本瓦葺。棟札によって慶長16年(1611)に建立され、宝永4年(1707)10月4日の大地震で倒壊したことが分かっています。
建立後に度重なる修理を受けていますが、概ね当初の規模を伝えており、桃山時代客殿として本興寺の客殿(方丈)に次ぐ貴重な建物です。
たこ焼き屋さんや他のお寺を覗きながら、尼崎駅に帰りました。
参考資料
尼崎市教育委員会 尼崎の文化財HP
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