兵庫県尼崎市 富松城跡
(Ruins of Tomatsu Castle, Amagasaki City, Hyogo Pref,)
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中世平城の北西部土塁と堀跡 |
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August 14 and September 11, 2019 野崎順次 source movie
尼崎市富松町2丁目13
尼崎市史跡
富松城跡は、戦国時代の城館跡で、長享2年(1488)の史料にその名がみえます。永正4年(1507)から始まった室町幕府管領、細川氏の分裂抗争を発端とする戦乱が尼崎地域に及ぶと、西摂地域の重要拠点であった尼崎城・伊丹城・越水城(現西宮市)のほぼ中間地点に位置し、戦略上の要地である富松城は、その戦乱の主要な舞台の一つとなります。現在、城の西側の守りとして築かれた土塁の一部が、幅11メートル、高さ4メートルにわたり残されています。これまでの発掘調査では土塁の内側(東側)にあたる場所で大規模な堀が見つかっていることから、富松城は土塁と二重の堀を備え、東西150メートル以上、南北200メートル以上の規模の城館であったと推定されます。
(尼崎市ウェブサイトより)
尼崎の宝・中世の富松城跡が、いま危ない
兵庫県尼崎市の北部に位置する約 500年前の富松城跡。2001年3月、未来に引き継ぐ尼崎の宝として尼崎市発行のミレニアム遺産100選集」に掲載されています。
しかし、個人所有であるため相続問題が発生し、2001年12月に所有権が国(財務省)に移り、このままいけば「競売」の手続きがとられ、本来の文化財価値が消滅される恐れがあります。
管領家(将軍補佐役)の細川家の家督相続に将軍足利氏の相続争いがからむ、戦国時代を語る上で欠かせない歴史の生き証人・富松城跡が、いま危ないのです。
そこで、次世代の子どもたちに富松城跡を引き継ぐため、2002年1月、富松城跡を活かすまちづくり委員会(代表 善見壽男、会員110人)を発足させました。
(富松城跡を活かすまちづくり委員会ウェブサイトより)
現地説明板とGoogle 航空写真
北西から見る。
東の方へ、窪みは堀跡
西に戻り、南に回る。
南西から見る。土塁がよく分かる。
南から見る。
再び、南西から土塁の全景を見る。
道路を隔てた北側には小さな祠があるが、発掘調査の結果、櫓台跡の一部である。
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