兵庫県 神戸市北区 有馬温泉
Arima onsen,Kitaku,Kobe City,Hyogo
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January 20, 2024 野崎順次
兵庫県神戸市北区有馬町
有馬温泉ぶらぶら
有馬温泉ウオーキングマップ
親水広場
有馬川沿いに少し上ってから、さらに右手に上っていった。
上大坊から湯本坂を上り、銀の湯に
お寺の多い寺田町
細い路を下る。不動石仏、御所泉源などあって、太閤通に着いた。
ねね橋
再び、親水広場
November 13, 2021 野崎順次 source movie
兵庫県神戸市北区有馬町
瑞宝寺公園
(Zuihoji Park, Kita-ku, Kobe City, Hyogo Pref.)
明治初期に廃寺になった黄檗宗瑞宝寺の跡地を、神戸市が1951年に公園として整備した。
歴史的には、豊臣秀吉も有馬をたびたび訪れていた。秀吉が「いくら見ても飽きない」などと瑞宝寺の紅葉を気に入ったという故事から、この地の紅葉には「日暮しの庭」、「錦繍谷」の別称がある。また秀吉が囲碁を打ったとされる石の碁盤も、公園内に残されている。
旧瑞宝寺の山門は、1868年に京都の伏見桃山城から移築されたもので、1976年に神戸市によって保存修復されている。
公園内には、小倉百人一首にも詠まれている和歌「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」(大弐三位)の歌碑がある。また毎年11月2日・3日には「有馬大茶会」が公園内で開かれる。
(ウィキペディア「瑞宝寺公園」より)
神戸電鉄で有馬温泉駅へ
瑞宝寺公園現地説明板
下の方から上へ
山門あたり
帰途
駅に近い太閤橋のたもとに二つの巨岩がある。
袂石(礫石)
昔、この北二里ほどのところにあった道場城(どうじょうじょう)の殿様が葦毛の馬に乗り、重藤の弓と白羽の矢を持ち、有馬の山で鷹狩をしたことがあった。山中で出会った美しい乙女を怪しく思った殿様は乙女に向かって矢を放った。その途端に殿様は目がくらんで落馬してしまったという。
実は乙女は湯泉神社に祀られる熊野久須美(くまのくすみ)の女神であった。矢を放たれて逃げながら、乙女は袂(たもと)に小石を入れて身構えたが、殿様が落馬して追って来られないことを知って、ここに袂の小石を捨てたとも、逃げながら乙女が殿様に小石を礫のように投げたともいわれる。
その小石が時と共に大きくなって この巨石となった。袂石(たもといし)とも礫石(つぶていし)とも呼ばれる
この石には女神の力が宿っているという。この言い伝えから江戸時代には、葦毛の馬・重藤の弓・白羽の矢・鷹狩の姿で有馬を訪れると、神の怒りで山河が鳴動するほどの大嵐になると恐れられていた。
一説では、この巨石は有馬で流行った疫病を追い払おうと、大己貴(オオナムチ)の神が六甲山から投げ降ろしたものなので、この石をさすった手で体を撫でると、病や怪我が癒やされると信じられてきた。
小石が年と共に巨石に成長するという信仰は日本各地にあり、「さざれ石の巌となりて」という君が代の歌詞も同様の考えに基づいている。なお、『西摂大観』では乙女に矢を射たのは松永某と記されているが、道場城主なので正しくは松原氏であろう。
(園田学園女子大学名誉教授 田辺眞人)
一般社団法人 有馬温泉観光協会
(現地説明板)
仏座巌
昔、「仏座巌」は、その形が仏座に似た巨石であり、寛文の時代(1660年代)に洛(京都)の東南・霞谷の竹葉庵に隠棲し、徳が高く博学の当代一流の詩人・文人である日蓮宗の高僧・元政上人が命名したとされる。
元政上人は、寛文5年秋と寛文7年発の二度
有馬を訪れ、その滞在記は『温泉遊草』中の「仏座巌記」では「その上に菜畠を作り、なお、数十人を容れる余地がある」と巨岩の様を表現している。
このように一代の大徳に命名され、賛美された「仏座巌」は、早々に有馬の名物となり、諸記に その名を残すこととなる。
"賤の女やつみたすからん仏座巌
上に菜まいたまいたまいた(「迎陽有馬名所鑑」重香)"
後の文化9年(1812年)6月25日、大洪水により埋没し、遂にその巨大な偉容は消え、現在の姿になったと言われる。
(現地説明板)
その他
Nov.28,2020 瀧山幸伸
市街地へ下る
金湯付近
銀湯
炭酸源泉
Apr. 2010 撮影:中山辰夫
神戸市北区有馬町
六甲川と滝川、有馬川沿いに開けた温泉街。神戸からは約1時間。湯煙にはしっとりとした情緒が漂っている。
町には昔ながらの竹細工や人形筆などの伝統工芸品の店や、秀吉ゆかりの古刹があって、歴史の素顔に触れることができる。
有馬温泉は、日本書紀にも登場する日本最古の温泉で、白浜(和歌山県)・道後(愛媛県)と並ぶ日本3古泉の一つであり、その歴史は古く、1300余年の歴史を持つ名湯。
阪神の奥座敷とも呼ばれ、深い山々に抱かれた温泉地は、今なお昔の情緒が色濃く残っている。
山間の温泉で、泉源は2000年前からの火山活動で出来た愛宕山(標高462m)付近にある。
この山の北斜面には、主として金泉が、南側には銀泉が湧き出る。さらに、ラジウム泉が六甲川上流で湧出する。
銀泉とは無色透明の炭酸泉とラジウム泉のことである。
炭酸泉は飲料用にも用いられ、有馬の名物・炭酸せんべいの原料にもなる。
金泉は、含鉄ナトリウム・塩化物・強塩高温泉で、湧出の時は透明であるが、空気に触れるとすぐ酸化して赤褐色になるのでタオルを湯につけると赤く染まる。
添付の「有馬の歴史」にも記載されている通り、往古よりこの地は天変地異を経験している。その都度見事に立ち上がっている。
今、神戸大震災で大きな被害を受けつつも、たくましく生き残りをかけて耐えている。時流にも耐えている。
久しぶりに訪れた有馬の湯、名物の湯の色が少し薄まった気がしたが、気のせいか。いつまでも沸き続けて欲しいと思った。
温泉街
ねね橋
太閤通
町並
有馬玩具博物館ではドイツの伝統玩具や懐かしいブリキのおもちゃが童心を呼び戻す。
御所泉湯
御所泉源は天神泉源・極楽泉源・有明泉源・妬(うわなり)泉源という代表的な有馬温泉の泉源の一つ。
温泉寺の参道「不動坂」の袂にある。
有馬籠
有馬籠の歴史は非常に古く、桃山時代の本願寺の「顕如上人貝塚御在所日記」を見ると、1585年、有馬へ入湯した顕如上人は、有馬土産として、秀吉の夫人・ねねに有馬籠を贈ったと記されている。
その後、江戸時代に入ると多くの著書や文献に紹介され、黒川道祐の「有馬地誌」また「日本山海名物図会」には、 「有馬籠、細工妙を得ていろいろの竹篭を作り出す。有馬籠とて著名な名産なり、入湯の人々、買い求めて家途とす。」
などと記されている。当時は、有馬の町名も籠屋町や筆屋町などに分かれていた。
明治の初め、1873年のウィーン万国博覧会に出品し優秀賞を受賞しました。
その後、有馬籠は、次第に発展し、1910〜20年代は、従業者も70数名に達し、有馬籠の全盛時代であった。
このころ、九州の別府へも職人が行き、その技術を教えたと言われている。
金の湯
2002年12月4日、有馬温泉に待望の新しい外湯『金の湯』ができた。
前身は1961(昭和36)年にできた有馬温泉会館である。
有馬温泉発祥の地といわれ、室町期には「一の湯・二の湯」があったと古文献に記されている。
明治からは有馬本温泉として親しまれてきたが、老朽化に伴い、今回装いを一新した。
新しい二階建ての「金の湯」の外観は、温泉街の街並みに溶け込むよう、純和風になっている。
本格的な温泉の雰囲気を味わってもらおうと、浴槽は男湯・女湯とも御影石づくりで重厚な雰囲気を演出している。
広さは各29平方メートルで旧温泉会館よりもゆったりとしている。
建物の外に足湯コーナーや飲泉場を開設していて、こちらは無料で楽しめる。
「金の湯」の前に建てられている石碑には「日本第一神霊泉」と刻まれている。
兵衛 向陽閣 「館内のシダレサクラ」
老舗の旅館は30数軒とのこと。
参考資料《有馬観光協会資料、HP,他》
有馬温泉観光協会資料
有馬の歴史
発見
有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています。
温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています。
有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593?641年)、第36代孝徳天皇(596?654年)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり有馬の名は一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けています。
釈日本紀によると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から2年後の大化3(647)年10月11日から大晦日還幸までの82日間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数おつれになり滞在されたとの記述があります。
開創の行基
「有馬温泉史話」によれば、舒明天皇・孝徳天皇の度重なる行幸により世間に名をしられるようになった有馬温泉ではありますが、その後徐々に衰退に向かっていったといわれます、これを再興し有馬温泉の基礎を開いたのが名僧行基です。
行基は聖武天皇(701?756)の信任あつく、主に池を築き、溝を掘り、橋をかけ、お堂を築くことなどに力を発揮し大きな業績を残した高僧といわれています。
行基が大坂平野の北、伊丹の昆陽に大池(昆陽池)を掘っていたときのこと、一人の人に会いました。その人は「私は体の中に悪いはれ物ができて、数年来苦しんでおります、聞くところによりますと、有馬の山間には温泉があり、病気にはたいそう良いそうです。私をそこへなんとか連れて行ってくださいませんか。」と頭を地に付けて懇願しました。哀れに感じた行基はその人の望みを叶えるため、有馬に連れて行く途中、さらにあれこれと望みごとを頼むその人の願いをかなえてやると、不思議なことにその人は金色荘厳なみ仏の姿となり、有馬温泉を復興するようにと言って紫雲に乗って東方へ飛び去ってしまいました。
行基は感嘆のあまり、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納めたといわれています。これは、行基の徳に感じた薬師如来が温泉を復興させ、有馬温泉発展の基礎を行基に築かしめることとなったとされております、事実、行基がここに堂を建立して以来、約370年の間、有馬は相当な賑わいを見せたと伝えられています。
平安時代に入ると、各種の文献にも散見されるようになり、多くの文人や天皇、また重臣たちも有馬を訪れたとされており、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いております、つまり、当時すでに伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていたわけです。
中興の仁西
時代は流れて、承徳元(1097)年、天災が有馬を襲いました。「温泉寺縁起」によると、「堀川天皇の承徳元年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した」とあります。諸説はありますが、この大洪水以後95年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したものだと考えられています。
荒廃しきっていた有馬を救ったのは、仁西(にんさい)という僧で、源平合戦で平家が滅亡した直後、吉野(奈良県)からやってきた仁西が有馬の再興を果たすこととなりました。
仁西は大和の国・吉野にあった高原寺の住僧でありましたが、ある時紀伊の国・熊野権現に詣でた折、夢のお告げをうけました、それは「摂州有馬の山間に温泉がある。近頃、はなはだしく荒廃しているにつき、行って再興せよ」というものでありました。
仁西は謹んで受けましたが、有馬への道筋がわかりませんでした、そこで熊野権現に訪ねてみたところ、「庭の木の葉にくもがいる。その糸のひくところに従っていけ」とのことであり、翌朝目覚めて庭にでてみると、確かに夢のお告げ通りで、仁西はくもの糸に従い、有馬へと向かいました。しかし、中野村の二本松まで来たところで、くもの糸を見失い途方にくれていると、突然老人が現れ仁西を山上まで案内し、一枚の木の葉を投げ「この葉が落ちたところが霊地である」と教えてくれました。
さっそくその教えに従い葉の落ちたところを探してみると、そこには行基が開いた温泉があったということです。そこで、里人を集め泉源をさらえ、承徳の洪水より一世紀に及ぶときを経て有馬温泉の復興に成功したのでありました。
温泉の復活とともに、仁西は温泉寺を改修し、12の宿坊を営みました。これは源頼朝が鎌倉幕府を開く1年前、すなわち建久2(1191)年のことと伝えられています。12の宿坊の管理は仁西が吉野からつれてきた河上、余田氏らの平家の残党であったといわれております。
現在、有馬において「坊」の文字がつく宿が多いのは、このときの流れをくむか、あるいはそれにあやかってつけられたものといわれております
再建の秀吉
以後、泰平の日々が続き、室町から戦国時代にかけての混乱期にあっても、入湯に訪れる人はひきもきらず、世上の混乱も有馬の繁栄にはさして影響を与えることはなかったとされています。
仁西が有馬温泉の再興から三百余年を経て、ふたたび平和な保養の地に動乱期がやってきました、享禄元(1528)年大火に見舞われ、有馬は焦土と化したのであります、また、天文14(1545)年には、善福寺後方の落葉山に城を構える三好宗三政長に対し、三木城主別所豊後守が大軍をひきいて攻めた折、有馬はその余波を受け大打撃をこうむりました、また、天正4(1576)年にも大火があり、有馬は立ち直る間もなく壊滅的なダメージをうけてしまいました。
一方、明智光秀の軍を打ち破り、また柴田勝家、織田信孝などを次々と破って天下統一の地固めにもどうやら目途がついた天正11(1583)年、秀吉は有馬を訪れ、長らく続いた戦で疲れた心身を天下に名高い有馬の名湯で癒そうとしたものか、これが記録に残る秀吉入湯の最初であります。その後も秀吉は再三有馬を訪れており、有馬に対してさまざまな援助を行っています。
秀吉の事蹟の特筆は、慶長2(1597)年に始まった大規模な改修工事です。この直接のきっかけは、前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震でありました、建物の被害も甚大ではありましたが、さらなる問題としてこの地震の直後から温泉の温度が急上昇し熱湯となってしまったことでありました。湯治効果の大なることを熟知していた太閤は、文字通り英断をふるい有馬温泉の根本的な改修工事に着手することになりました。
秀吉の工事以来350年間、有馬町(有馬町は明治29年に湯山町から有馬町に改称されました。)は一度も泉源の改修工事を行っておらずこの時の秀吉の英断がその後の有馬の繁栄に計り知れない影響を与えたことがわかります。しかし、地震後に新たに湧出した温泉に湯山御殿を造り、工事が完成した慶長3年の5月に入湯の予定でありましたが、激しい風雨のため中止となり、その後まもなく床に伏し同年の8月18日に没したため、秀吉はついにその成果をみることができませんでした。
江戸時代を経て
その後、江戸時代に入ってからの有馬は、さらに繁栄の一途をたどり、江戸時代の有馬は幕府の直轄領でありました。
しかし、当時は現在のように各旅館内に内湯があったわけではなく、町内に元湯がひとつあるだけで、湯治客はすべてこの元湯に出かけるシステムになっていました、また温泉の湧出量もさほど多くなく、秀吉の入湯、そして泉源の本格的な改修工事により温泉としての知名度が高まって訪れる人は増加したものの、当時の入湯の様子を調べてみると、現在の姿とはかなり異なっていたようでした。
この頃の元湯は、南北に七間、東西に三間ほどの建物が1棟あったにすぎず、その中に設置されていた浴槽も、南北に2丈余り、東西1丈余りで中央に板仕切りがあり、一辺一丈の小さな正方形のものでしたその南側は「一の湯」北側は「二の湯」と呼ばれ、深さはいずれも三尺七、八寸であったと伝えられています。
仁西が開いた12の坊は、秀吉が大改修工事をしたころには20坊に増えて旅館として機能しており、一の湯には十坊、二の湯に十坊がそれぞれ入るように決められています。各坊に2人の湯女が配属されておりました、その後も湯治客の増加にあわせて、坊の下に「小宿」と称する宿舎が作られるようになり、宿泊施設も充実していくことになりました。
また、江戸時代後半になると、庶民も社寺参詣や、湯治に出かけるようになりました。このような庶民の旅の手助けをしたのが道標です。有馬温泉にもこれらの道標がいくつか現存しており、有馬の街で見かけるけることができます。
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