兵庫県姫路市 万宝寺
(Manpoji Temple, Himeji City, Hyogo Pref.)
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石組、飛石がよい。 |
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September 13, 2020 野崎順次 source movie
兵庫県姫路市的形 1081-1
臨済宗妙心寺派
霊亀山 万宝寺
当寺は寛文四年(1664)に慶雲寺(野里)の大悲弘済禅師によって開基され、初代住職に寂源和尚を遣わした。二代目住職は、地元的形の回船問屋・中村堪兵衛の次男に当たる鉄心である。鉄心和尚は壇越中村家の支援を得て、元禄九年(1696)に本堂を建立し、霊亀山万宝寺の寺号を受ける。その他、鐘楼など鉄心時代に伽藍は大きく整備される。その後、嘉永七年(1854)に、それまでの慶雲寺末から妙心寺末となる。
(西桂「兵庫県の日本庭園 歴史と美を訪ねて」2004年より)
山門、庫裏書院、本堂書院
万法寺庭園 江戸初期 池泉鑑賞式
日本庭園の特徴として、作庭年代や作者の記録の残されている古庭園は少ないが、伝承としては比較的多い。まったく論外の伝承もあるが、大きな手掛かりとなることも多い。万宝寺庭園の作者として伝わっている興味深い人物がいる。それは千利休の孫・宗旦の高弟で四天王の一人といわれた「杉木普斎」で、彼によって作庭されたと伝わっている。
(中略)
作庭者とされる杉木普斎は、伊勢の国・山田の代々伊勢神宮の恩師の家に生まれた。十五歳の時上洛して宗旦の門に入り茶を学び、若くして山田宗偏と並ぶ高弟となり、茶の普及に努めた。同時に御師としての職がらも幸いして諸国を旅して多くの知己を得た。貞享四年(1687)に網干に来て佐々木氏に会う。佐は屋号を灘屋という回船問屋の豪商で、普斎に茶を学び師壇関係が生まれていく。その頃、米屋という屋号を持つ回船問屋だった的形の中も、佐々木氏を通じて普斎に茶を学んだという。こうして弟が住職である万宝寺の作庭を杉木普斎に頼んだというのである。作庭に係わったとすると、普斎が播磨に滞在した元禄十三年(1700)から同十五年の間の可能性が高い。
庭園構成と特徴
庭園は本堂書院の北庭に当たり、背後の大日山を背にして作庭された池泉観賞式庭園で、東部に茶室があり一部茶庭(露地)になっている。
庭の中心に築山があり、そこに蓬莱石となる巨石が組まれ、この立石を中心に全庭が構成され、下部に枯滝を組む。
築山は低く主木としてソテツが植えられている。ソテツは豊臣秀吉が特に好んで庭園に用いられてより、多くの作庭に使われてきた。
石橋は二ヵ所にあって、ともに自然石で落ち着きのある石橋である。西部の石橋の奥にある三尊石は巧く組んでいる。
露地は書院風の茶庭で、茶会の時には本堂の書院が寄付きとなり、庭を巡りながら茶室へと至る。杉木普斎は、わび茶を受け継ぎ普及したという。その作風が感じられる一庭である。
(西桂「兵庫県の日本庭園 歴史と美を訪ねて」2004年より)
西側の入り口から入る。大胆な飛石と西側の石橋
本堂書院から庭の中核部を見る。
東側の石橋あたり
茶室まわり
築山の三尊石(蓬莱石)
築山その他
境内その他と帰途
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