兵庫県伊丹市 西国街道
(Saikoku Road, Itami City, Hyogo Pref.)
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伊丹市内は街道らしき道筋がよく残っている |
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April 29 and May 17 and 20, 2020 野崎順次 source movie
兵庫県伊丹市
旧西国街道は、律令国家の時代、都と大宰府を結ぶ国家的基幹道路でした。江戸時代に入ると、街道は江戸を中心に整備されるようになった為、古代山陽道は西国街道と呼ばれ、脇街道へと格下げになったが、依然、西日本における交通の要衝として商人や旅人たちで大いに賑わっていました。西国街道のうち、東海道伏見宿から分かれ、山﨑・芥川・郡山・瀬川・昆陽のご宿を経て、西宮宿までを「山﨑通り」と呼ばれるようになりました。昆陽はこの山﨑通りの宿場町になり、元弘二年(1332)に後醍醐天皇が隠岐に流された折、旧西国街道の昆陽に一泊され、「命あれば昆陽の軒端の月も見つまたいかならん行末の空」と詠まれたことは有名で、増鏡にも記されています。
(伊丹市ウェブサイトより)
西国街道
京の都と西日本を結ぶ西国街道は、京都・東寺の門前を起点とし、大阪府下を経て下河原で伊丹市域に入ります。猪名川を渡り、北村~大鹿~千僧~毘陽~寺本の各村を通過し、武庫川を渡って西宮神社にいたり、さらに西へと伸びています。
江戸時代、京都から西宮へいたる街道には、淀川右岸に沿った大坂回リの道筋が本街道とされていました。しかし、距離的に短く、洪水などの災害も少ない西国街道は、急ぎの旅や大名の参勤交代通行路としてよく利用されました。
江戸時代中期には、参動交代時の忙しさに悲鳴をあげた街道沿いの宿駅から、大名の通行差し止めが訴えられたこともありました。差し止めはなされませんでしたが、西国の大名が京都~西宮間で西国街道を通行する場合は、人足や馬の手当てができないことを承知のうえで通るように、という触れが幕府から出ています。
忠臣蔵で知られる浅野内匠頭や、長崎出島のオランダ人の一行、全国の測量を行った伊能忠敬、幕末には長州の奇兵隊、等々、さまざまな人々が、さまざまな目的でこの街道を往来しました。
(現地説明板より)
昆陽宿(こやじゅく)
江戸時代の昆陽村は西国街道の宿駅でした.
村内は、東町・中町・大工町・市場町・辻町・佐藤町・小井之内の7町からなり、人馬継問屋には御用通行の役人や旅人の荷物の継ぎ立てを行う人馬が用意されていました。
天保14年(1843)の史料には、家数174軒・人口913人・本陣1軒(佐藤町)・旅籠7軒・人馬継問屋1ヵ所(市場町)であったことが記されています。
当時、宿駅の人足や馬を利用する場合、旅行者は各宿駅で荷物の積み替えを行い、これを「継ぎ立て」と称しました。
人馬継問屋には、御用通行の旅人のために、25人の人足と25匹の馬が備えられ、西は西宮宿裏で、東は瀬川・半丁宿までの継ぎ立てを行いました。
西宮宿までの賃銭は、御用通行の場合、御定め賃銭といって、馬一匹分の荷物の駄賃が86文、人足一人分の駄賃が43文、瀬川宿までは馬80文、人足39文と決められていましたが、商人や一般の旅人の賃銭は、馬方と利用者の相互で取り決められ、御用通行の場合より高額でした。
宿駅の人々の負担によって成り立っていたこのような交通制度は、住民に大きな経済的負担を強いることが多かったため、幕府の許可のもとに、年月を限つて御定め賃銭の割り増しが行われることもありました。
長い年月にわたり、御用継ぎ立てを担ってきた毘陽宿は、明治5年(1872)8月、江戸時代の宿駅制度が廃止されるとともにその任務を終えました。
(現地説明板より)
伊丹市内の西国街道をたどる。たいした史跡はないが、直線ではなく左右に微妙にぶれながら続く道をサイクリングするのは楽しい。西の出発点は、西国街道が国道171号線に合流する西天神社付近で、かつて昆陽宿があった。そこから東北に街道は向かう。
小さな公園に昆陽宿の説明があった。
昆陽5丁目から1丁目
少し北にはずれて、東天神社
境内の西行法師歌碑「津の国の芦のまろやの寂しきは 冬こそわけて訪うべかりけれ」
神社前の道標 有馬道「右 大坂 尼﨑 左 小濱 中山寺」かな?
西国街道に戻り、稲野村道路元標(有馬道と交差する四つ辻)
昆陽1丁目の市立稲野小学校の校門に西国街道顕彰碑と能因法師の歌碑「芦のやのこやのわたりに日が暮れぬ いづち行くらむ駒にまかせて」
かつての昆陽村から千僧村に
天神社(昔は猪名権現社)
千僧を行く。千僧公民館がある。
ここから現住所は左が大鹿、右が桜ケ丘(ともにかつての大鹿村)
大鹿交流センター、西国街道と有馬道の交差点
さらに東へ、大鹿の歴史の説明板があり、銘酒「剣菱」はここで生まれた。
伊丹坂、伊丹段丘を下る。
兵庫県道13号線(産業道路)を横切る。
市文 辻の碑
西国街道と多田街道の交差する辻に建っており、高さ92センチ、幅76センチの自然石。表面の銘文は長年の風雨により摩滅し、「従東寺拾里」のほかは読みとれません。しかし、記録によると、この地は旧摂津国の
国境からほぼ等距離(七里)、つまり"摂津のへそ(中央)"の位置にあることを示していたようです。
(伊丹市ウェブサイトより)
多田街道を少し南に行くと水車小屋がある。
JR福知山線を横切り、北へ行くと、国道171号線軍行橋に至る。
さて、今回の昆陽の出発点から西に行ってみよう。重交通の171号線の歩道を進み、南(向かって左)の住宅地に入る。途中でルート確認のために、愛宕神社に寄り道する。
閼伽井、近くの昆陽寺の法事などに使われた井戸の跡
住宅地を進み、再び国道171号線に出る。
兵庫県道42号尼崎宝塚線(尼宝線)を横切ると、師直塚がある。足利尊氏の執事、高師直は南朝の北畠顕家、楠正行らを敗死させるなど軍功を上げたが、観応二年(1351)にこの地で一族が暗殺された。明治末期まで墳墓が残っていたが、取り壊され、大正四年にこの供養碑が建立された。この石碑を勝手に動かすと祟りがあるといわれ、実際に身内と会社に不幸が続いた人がいたそうだ。
さらに171号線沿いに進み、右手に入り、武庫川に向かう。
西国街道 髭の渡し
江戸時代に西国街道の武庫川を渡る際、堰堤(ダム)の付近には武庫川の渡しがあり、1909年(明治42)に甲武橋がかかるまで渡しは続けられた。西昆陽村の髭の安兵衛さんの茶屋が近くにあったことから髭の渡しと呼ばれたようだ。
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