兵庫県上郡町 白旗城跡
Shirahata castke ato,Kamigori town,Hyogo
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February 9,2020 大野木康夫
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所在地 兵庫県赤穂郡上郡町大富
国指定史跡「赤松氏城跡」の一部
(上郡町ホームページの解説)
白旗城は、南北朝時代の武将・赤松円心が築き、守護大名赤松氏発展の基となった武功を挙げた記念すべき山城です。その後も赤松惣領家の本拠地として、その盛衰の歴史に度々登場します。
赤松惣領家が滅びた江戸時代以降も、白旗城は赤松氏ゆかりの城として、白旗伝説が末裔たちを中心に語り伝えられ、広く知られるようになりました。
◆城の歴史
白旗城は、足利尊氏と共に建武政権に反旗を翻した赤松円心が、建武三年(1336)、新田義貞の軍勢を迎え討つために築かれました。
「白幡寺」を城とした時、神仏が白旗として現れるという瑞兆があり、八幡・春日両社を勧請したとの伝承がのこることから、笠置城(京都府相楽郡笠置町)や麻耶山城(神戸市灘区)など、当時の山城によくみられる山岳寺院を改修した城郭とも考えられます。
「白旗城合戦」で新田勢を足止めし、九州の足利勢の東上を助けた功により、円心は室町幕府の播磨守護職に任じられます。後に備前・美作などの守護も兼ねた赤松氏発展の基となった武功の城・白旗城は、代々の赤松氏本城として、その盛衰の歴史に登場します。
赤松円心の三男で、惣領家を継いだ則祐は、白旗城麓の赤松に守護館や五社八幡社を、河野原に宝林寺を営み、その本拠として整備します。跡を継いだ義則・満祐の代、白旗城への白旗降下の瑞兆が伝えられており、それを機に白旗城鎮守の白旗八幡社が山麓に移されたとおもわれます。同社には一切経が収められており、寺院と一体化した神仏習合の社として整備されたようです。
嘉吉の乱で赤松満祐をはじめとする惣領家が一旦滅びた後も、その再興を目指す赤松則尚がいっとき入城します。後に、惣領家を再興した赤松政則の養子義村が浦上村宗と対立して入城する戦国時代前半までのおよそ180年余り、白旗城は赤松氏、特に惣領家にとって最も重要な地とみられていました。
赤松惣領家は、その後置塩城(姫路市夢前町)を居城とし、関ヶ原の戦いなどで滅びたといわれていますが、法雲寺・宝林寺や五社・白旗八幡社などの赤松氏ゆかりの寺社は江戸時代ものこり、赤松氏の遠祖・源季房までさかのぼる白旗城伝説が播磨の赤松氏末裔たちによって語り伝えられるなど、白旗城は今なお赤松氏ゆかりの山城として広く知られています。
白旗城は「赤松氏城跡」として感状山城(相生市矢野町)、置塩城とともに国指定史跡として整備が図られています。
◆見所
標高約440mの白旗山上から尾根・谷部にかけて、東西約350m、南北約850mにわたって築かれた曲輪(くるわ※平坦地)群は、戦国時代前半まで改修され続けた跡とみられ、播磨の中世山城の中でも破格の巨大さを誇ります。
本丸跡、櫛橋丸跡と伝えられる第1・4郭からの西の赤松方面への眺望は良好で、第1郭東方からは播磨科学公園都市を遠望することができます。
侍屋敷と伝えられる谷部の曲輪には、高さ約1.5mの石積や庭石らしき立石などがのこり、山岳寺院跡の遺構とよく似ていることなどから、合戦のない時期には、神仏習合の白旗八幡社奥の院として使用されていたとおもわれます。
第3・4郭には、堀切の上に土塁や石積がそれぞれ築かれ、戦国時代後半の城郭でさらに発達する厳重な防御施設への萌芽をみることができます。
白旗城は上郡町の中心部から北、千種川左岸の白旗山の山頂に位置しています。
公共交通機関であれば、智頭急行線河野原円心駅から南東に2kmほど歩けば細野の登山口です。
細野の登山口には駐車場もあります。
反対側(東側)の野桑公民館からも登山道がありますが、上郡から野桑に行くバスは平日のみ6往復です。
細野登山口付近
白旗城は南北朝の争乱時、新田義貞の大軍に攻められても落城しなかったことから、近年、上郡観光協会が「落ちない城」として、受験生向けに宣伝しています。
登城口のゲート付近
山麓五輪塔群
登山口からすぐのところです。
栖雲寺跡
登山道
はじめは車道なのでなだらかです。
山道の始まり
合格祈願用の絵馬をかける設備が設けられています。
公衆便所もあります。
登りはじめは歩きやすい土の道です。
分岐を左に行きます。
ここからは石が転がる歩きにくい急坂が続きます。
しばらく上っていくと、左手に登り石垣のような石塁があります。
かなり立派なものですが、単なる猪垣かもしれません。
さらに転がる石が多くなり、非常に歩きにくくなります。
しばらく上ると細かい石段が始まります。
もうすぐ尾根筋に出ます。
尾根筋に出ました。
撮影したり寄り道したりしてゆっくり登って1時間弱でした。
尾根筋を遺構に向かって進みます。
堀切
西側の曲輪跡に残る石積
早朝で霜が残っています。
中心部へ
第四郭(櫛橋丸)への急坂
櫛橋丸
わずかに残る石積、赤松方面の眺望
東側の段郭を下りていきます。
堀切
二の丸付近の登山道
第二郭(二の丸)
侍屋敷へ
侍屋敷
石垣の残石がちらばっています。
侍屋敷南側の石積
大手郭へ
上部の石積
ここから踏み跡をたどって急坂を下りながら、思ったよりもしっかり残っている石積を撮影しました。
木は伐採されていてとても見やすいのですが、かなりの急坂なので、注意が必要です。
ここで約1時間かかりました。
尾根筋まで直登
第一郭(本丸)
第三郭(三の丸)へ
三の丸
土塁、東側の大堀切など
本丸へ戻る
本丸
桜門・馬場丸
二の丸
帰路
下りは石が邪魔で慎重に下りたのでやっぱり1時間かかりました。
登城口周辺・駐車場など
大手郭周辺の石積遺構が素晴らしいのと、登山道が浮石だらけなので思ったよりも時間がかかりました。
Feb.24,2017 瀧山幸伸 source movie
赤松氏城跡 国史跡
白旗城(しろはたじょう、しらはたじょう)は、現在の兵庫県赤穂郡上郡町赤松に存在していた日本の城(山城)。「赤松氏城跡」の1つとして国の史跡に指定されている。室町時代に播磨国白旗山(標高440m)に築かれ、播磨守護赤松氏の居城となる。
築城期には二つの説があり、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)が護良親王(大塔宮)の令旨を受け鎌倉幕府打倒の軍を挙げた時に築いたという説(1333年説)。もうひとつは、則村が幕府滅亡後に成立した建武政権から離反した足利尊氏に従い、宮方の新田義貞の西進を食い止めるために築いた説(1335年説)。赤松円心はこの城に籠もり、古典『太平記』に拠れば、東上する足利軍を迎え撃つ新田軍約六万を五十日あまりの間足止めさせ、湊川の戦いでの足利軍勝利に貢献したという。他にも諸説があるが、有力なのは1335年説である。1361年には、赤松則祐が南朝方の襲撃で京都を逃れた春王(足利義満)らを避難させたという。嘉吉元年(1441年)、赤松満祐は将軍義教を討つと白旗城で挙兵し幕軍に攻められて落城(嘉吉の乱)。
白旗城の曲輪と縄張は、本丸・二の丸・三の丸で形成されており、他にも馬場丸・侍屋敷等がある。三の丸の近くに、罪人を突き落とす「千人落とし」があり、本丸と三の丸の間に夏でも水が涸れることの無い「光火の井」があったが、今ではもう枯れて塞がれている。城へ上るには、赤松方面からは「ひばら谷(西)」「ふねが谷」を通り、鞍居方面からは「よね谷」「ひばら谷(東)」「くらの谷」「ぼう谷」「ひよごり」を通る。
(wikipedia)
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