兵庫県神戸市中央区 湊川神社
(Minatogawa Shrine, Kobe, Hyogo)
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Feb.2011 撮影/文: 野崎順次
兵庫県神戸市中央区多聞通3−1−1
撮影日: 2011年2月5日
御祭神は楠木正成公(大楠公)である。
楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。
説明板と表神門
国指定文化財史蹟 楠木正成公墓碑
徳川光圀公(水戸黄門)は水戸藩主を辞して西山荘に隠居された後も、大日本史の編纂を行うなど活躍し、正成公をひたすらお慕いして墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立した。これら御事蹟は天下に顕彰され、偉大な御功績をのこした。
この墓碑の建立によって、正成公の御盛徳は大いに宣揚されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となった。即ち幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木保臣・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走した。
徳川光圀公御像と頌徳碑
この功績を追慕して御尊の建設が尊願され、昭和30年7月に完成した。銅像の原型は、平櫛田中の作で、その頌徳碑は、徳富蘇峰の文による。
大楠公御一代記
境内
末社 楠本本稲荷神社
境内
末社 菊水天満神社
社殿
現在の社殿は、戦災によって焼失したものを、昭和27年10月24日に復興新築されたもので、様式は権現造に似た八棟造りとされ、鉄筋コンクリート造で建てられており、戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われている。
本殿は三つの御扉が見え、三座に分かれ祀られている。中央の御扉の奥には主神の正成公、向かって右には正成公夫人、向かって左には御子の正行公と正成公御弟の正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿がお祀りされている。本殿の階下左右にある金色の獅子・狛犬は平櫛田中の作で、腹中には「国家の隆盛・国民の幸福・世界の平和」を祈る祈願文が納められている。
拝殿天井の絵は、全国著名画家の奉納になったもので、中央の「大青龍」は福田眉仙の作、その右四枚の板画「運命」は、棟方志功がニーチェのツァラトウストラに暗示を受けて創造した作品。
いろいろな参拝者
国指定文化財史蹟 殉節地(史蹟 楠正成戦没地)
延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季卿以下御一族と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓われつつ殉節された場所と伝えられ、境内西北隅に位置する。
尚志館
宝物館
参考資料
湊川神社HP
ウィキペディア「湊川神社」
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