兵庫県三木市 伽耶院
Gayain,Miki city,Hyogo
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暖かい心を感じるお寺 |
Nature
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のどかな山間地 |
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3つの重文建造物 |
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三木市志染町大谷410 伽耶院 本堂 重文 近世以前/寺院 江戸前期 正保3(1646) 桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、本瓦葺 宮殿 19750623
三木市志染町大谷410 伽耶院 多宝塔 重文 近世以前/寺院 江戸前期 正保5(1648) 三間多宝塔、本瓦葺 19750623
三木市志染町大谷410 伽耶院 三坂明神社本殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 正保(1645-1648)頃 三間社流造、こけら葺 石燈籠2基 19750623
April 22,2023 大野木康夫
source movie
仁王門
昭和3(1928)年の再建
境内入口付近
二天堂(中門、三木市指定文化財)
慶安4(1651)年の建築
三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺
【三木市ホームページから引用】
『大谷山大谿寺縁起幷記録』及び金剛柵の墨書によると、慶安2年(1649)に着工し、同4年竣工したと考えられる。
門の両脇後間に安置されている二天像には慶安3年の銘があり、二天門の造立時期の傍証となっている。
造立者は、東一坊澄順で、大工は、「当国明石住水田作右衛門藤原勝長」とされる。
「水田作右衛門藤原勝長」は、正保5年(1648)の多宝塔建立にも携わっている。
建立後の修理時期については、寛政6年(1794)、屋根葺き替えの鬼瓦に記銘があるほか、大正15年(1926)から昭和3年(1928)にかけての修理棟札が小屋内にある。
なお、平成14年から19年にかけて地盤強化、軒回り、小屋組解体工事を実施している。
門の側面に用いた二重虹梁蟇股式(にじゅうこうりょうかえるまたしき)の妻組工法(つまぐみこうほう)と、多種多様な刳形(くりかた)を用いた部材で古式に組み立てられた妻飾りを有する切妻造(きりづまづくり)の八脚門となっている。
境内
本堂(重要文化財)
【三木市ホームページから引用】
慶長15年(1610)の建立と伝わっているが、解体修理時の所見や墨書等から正保3年(1646)の建立と思われる。
正徳2年(1712)の大雨で裏山が崩れ、破損した背面から東面にかけて小屋の組替え、脇仏壇の構えなどの改造が行われた。
その後、幾度か屋根周りの補修が行われ、正面を除く三方の瓦も本瓦から桟瓦(さんがわら)に葺き替えられた。
当堂は、母屋の背面の東西両側に下屋で脇仏壇が張り出し、外郭は正面と両側面の三方に縁を付している。
内部は前方二間を外陣(げじん)とする引違格子戸(ひきちがいこうしど)と菱欄間(ひしらんま)からなる仕切りを設け、三間内陣(ないじん)の中央後方の来迎壁前方に宮殿を安置している。
昭和56年10月から同59年3月にかけて解体修理工事が行われ、正徳の改修時の状態に復元がなされた。
多宝塔、三坂明神社本殿
多宝塔(重要文化財)
【三木市ホームページから引用】
『大谷山大谿寺縁起幷記録』や須弥壇(しゅみだん)の墨書によると、正保5年(1648)、小倉城主(小笠原)源忠真の寄進によって建立されたという。
その後、大きな改変はなかったが、江戸時代後期になって相輪(そうりん)から宝珠(ほうじゅ)に改められた。
伽藍の東端に位置し、一重は方三間で、前方正面に須弥壇を安置し、弥勒菩薩像を祀っている。
二層は柱12本を円形に配置し、四方に両開き扉を設け、側廻りに高欄付きの縁を付している。
一重との間は白塗りの亀腹(かめばら)を施している。
蟇股(かえるまた)と連子窓(れんじまど)は彩色されている。
昭和60年、相輪を解体修理に併せて復元した。
三坂明神社本殿(重要文化財)
【三木市ホームページから引用】
本堂と多宝塔との間の奥に鎮座し、当山の鎮守社となっている。
『大谷山大谿寺縁起幷記録』には、本殿に関する記事は見あたらないが、本殿前の石灯籠から正保頃(1645~48)の建立ではないかと思われる。
梁間一間の三間社流造で、正面の庇(ひさし)は、中二本柱を抜き、三間を1本の大虹梁(だいこうりょう)で架け渡している。
大虹梁上には色彩を施した蟇股(かえるまた)、側面の妻には懸魚(げぎょ)を懸けている。
江戸時代後期に軒廻りの修理がなされ、大正12年(1922)頃には、屋根の改変が行われ、こけら葺屋根から鉄板葺となった。
昭和の解体修理の際、再びこけら葺に戻すなど復元がなされた。
開山堂(兵庫県指定有形文化財)
明暦2(1656)年の建築
正面三間、側面三間、宝形造、向拝一間、本瓦葺、背面下屋庇付、杉皮葺
【三木市ホームページから引用】
二天門の上「毘沙門さんの黄金池」の西側の少し高くなった護摩壇の東側に位置している。
『大谷山大谿寺縁起幷記録』や墨書によると、明暦2年(1656)、京極右近源高供の寄進により、東住中興第四世東一坊澄順が当寺院の開祖法道仙人の御影堂として建立されたという。
母屋の背面の東西両側に脇仏壇が張り出し、外郭は正面と両側面の三方に縁を付して擬宝珠高欄(ぎほうじゅこうらん)を置く。向拝は、象鼻を装い、見返しに菊葉絵様の籠彫り彫刻をあしらった極彩色の手挟を施している。
正面は三間とも双折両開桟唐戸(もろおれりょうびらきさんからと)、側面は前端部蔀戸、中央間の前方半間部分に火頭窓を用いている。
内部は、長押(なげし)と天井の間に琵琶を奏でる飛翔女を描くなど、極彩色で華麗な壁面で彩られている。
また、来迎壁を設けて漆塗り、金箔、色彩などで彩られた宮殿を安置している。
中門
境内へ
晴れていて木立の陰で建造物が撮影しにくい状態
本堂(重文)
三坂明神社本殿(重文)
多宝塔(重文)
その他境内
中門前の人孔鉄蓋
所在地 兵庫県三木市志染町大谷410
伽耶院は三木市東南部の志染地区に位置します。
播磨一帯の名刹と同じく法道仙人の開基と伝わります。
伽藍入り口に二天堂(門)が建っています。
二天堂から短い石段を上がると右手に重要文化財の建物が立ち並んでいます。
本堂(重要文化財)
正保3(1646)年の建築
桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、本瓦葺
附指定:宮殿1基
多宝塔(重要文化財)
正保5(1648)年の建築
三間多宝塔、本瓦葺
三坂明神社本殿(重要文化財)
正保年間(1645-1648)頃の建築
三間社流造、こけら葺
附指定:石燈籠2基
Mar.2013 野崎順次 source movie
兵庫県三木市志染町大谷410
本山修験宗
大谷山 伽耶院
撮影日: February 23, 2013
寺伝によると、法道仙人が毘沙門天のおつげで、大化年間(七世紀半ごろ)に創建したといわれ、中世にはかなり栄えたらしい。花山天皇の行幸もあり、全盛時代は数十の堂宇、百三十余の坊があったといわれている。しかし秀吉の三木城攻撃のとき、ここの東南にある丹生山明要寺とともに兵火にかかって一山ことごとく焼失してしまった。その後江戸時代に姫路城主池田輝政や明石城主小笠原忠真らに帰依され、一部が再建されて現在にいたっている。体育の日は関西一円の修験者が山伏姿で集まり全山にこだまするホラの音、もうもうと立ちこめる煙の大護摩で参拝者が各地から集まる。(三木市HPより)
アプローチ
神姫バス伽耶院口で降りて、志染川沿いに東へ700mばかり歩く。
仁王門
安置されている尊像は行基菩薩の作と伝えられる金剛力士であるが、天正年間秀吉の三木城攻めに際して頭部と脚部を焼失したという。建物は大正時代の再建であり、花頭窓のみが前建造物の遺物である。
伽耶院の柱状節理と断層(大地震の跡)
写真中央部に上下に地層を分断するような割れ目が見られるが、これが断層面である。断層面を境に左側の地層(岩盤)が50cmほど下側にずり落ちていることが観察できる。この露頭の断層は正断層で、断層面に沿って、断層ができるときの強い圧力でまわりの岩石がボロボロになり、断層粘土が生じている。ここの地層は神戸層群に属す。上側の白っぽい地層が凝灰質の砂岩、下側の黒っぽい地層が凝灰質の泥岩である。
納経所(庫裡)への門には上らず、さらに直進する。
市重文 二天堂 江戸初期 慶安四年(1651)
屋根および軒まわりは後世の修理の際に改変されているが、それ以外は当初の形式を残している。木組の中および安置された二天像には慶安の墨書があり、建立は江戸初期ではあるが、側面の妻飾りは古い架構法である二重虹梁蟇股式が用いられている八脚門である。
「ちいさなもみじがいっぱい 持ち帰ってどこかに植えてやって下さいませんか」
「入山料 お一人につき草ひき十本 右ご協力のほど伏してお願い申し上げます 伽耶院」
国重文 本堂 江戸初期 正保3年(1647)
桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、本瓦葺、回縁付、南面
正面戸口上部に厚肉唐草模様の欄間。平面形式や全体規模に古来の密教仏堂形式の特徴をもつ。堂内の毘沙門天像(国重文)を安置している。
国重文 多宝塔 江戸初期 正保5年(1648)
三間多宝塔、二重本瓦葺、南面、小倉城主 小笠原忠政寄進(伝)。上層は和様四手先斗で扇垂木、下層は和様二手先斗で中央に蟇股入り。全体として、上下左右に均衡して美しい。
国重文 三坂社 江戸初期 正保(1645-48)頃
三間社流造、こけら葺、当山の鎮守三坂大明神を祀る。正面の虹梁蟇股組物彫刻および側面の懸魚などは江戸初期の様式を示す。
本堂、三坂社、多宝塔が西から東へと並び、そのさらに東に臼稲荷が、本堂の西(二天堂の北)に黄金水がある。
臼稲荷と石臼を抱えたモミジの木
黄金水、冬季にヒカリモが輝く。その周囲の石仏など。
境内の西側には開山堂、護摩道場、行者堂がある。
県重文 開山堂 江戸初期 明暦3年(1657)
方三間、宝形造瓦葺で一間向拝付。その向拝は、象鼻を装い、見返しに極彩式の手挟。内部に文様のほか飛天等の彩画が美しい。
護摩道場
市重文 行者堂 江戸初期 寛永七年(1631)
土佐城主源忠義の寄進、外回りは後世の修理により改変されているが、内部の厨子・脇仏壇などは寛永期のものである。
水子地蔵、あなたは、あの子のために何をしてやったのでしょうか。
仲よしポックリさんと赤帽石地蔵列
お寺の3匹の犬たち、新入りの『じゅんのすけ』は泰然として、ぴくりともしない。
帰途、バス停の近くのお堂に端正な三尊石仏があった。造り酒屋もあり、大吟醸4合飲んだら目が回ってきた。
参考資料
現地説明板
三木市HP
文化遺産オンライン 建造物修復アーカイブ
Nov.2011 酒井英樹
兵庫県三木市
撮影時期:2011年9月
<本堂>
正面5間、側面5間、一重、組物出三斗、中備蓑束、二軒繁垂木、寄棟造、本瓦葺(元茅葺)
江戸時代[正保3年(1646)]
《欄間彫刻》
<多宝塔>
3間多宝塔、初重円柱、組物二手先、中備蟇股・撥束、二軒繁垂木、二重四手先、二軒扇垂木、本瓦葺
相輪は昭和修理時の後補(同年代建設の酒見寺多宝塔[兵庫県加西市]に倣って復元]
江戸時代[正保5年(1648)]
《蟇股彫刻》
<三坂明神社本殿>
3間社、庇正面1間、身舎側面1間、浜縁付、組物出三斗、庇繁海老虹梁、流造、こけら葺
江戸時代[正保年間(1644〜1648)頃]
《木鼻彫刻(獏)》
《蟇股彫刻》
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