兵庫県西宮市 カトリック夙川教会
Catholic Shukugawa Church,Nishinomiya City,Hyogo Pref.
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May 28, 2020 野崎順次 source movie
兵庫県西宮市霞町
カソリック夙川教会
ヨゼフ梅木省三氏の設計になるネオ・ゴシック様式の聖堂が1932年(昭和7年)4月に完成します。新聖堂はブスケ神父が敬愛してやまなかった聖テレジアに献げられ、以後夙川教会は「幼きイエズスの聖テレジア教会」と呼ばれています。1945年から1963年まで大阪教区の臨時司教座聖堂としての役割を果たしました。
1995年(平成7年)1月の阪神淡路大震災で大きな被害を受けましたが幸いにも倒壊を免れ、2012年(平成24年)9月には耐震・改修工事が完了し、夙川のシンボルとして壮観な外観とともに、美しいステンドグラスや鐘の音が人々に心の安らぎと祈りの場を提供しています。祭壇奥のアルコーブに聖テレジア像がおかれ、右には聖テレジアと建堂当時の信徒の子どもたち、左にロザリオを手にした聖母子と聖ドミニコのステンドグラスが配されています。聖堂および鐘楼の歴史的、文化的な価値が評価され、2009年に「西宮市都市景観形成建築物」、2012年には「兵庫県景観形成重要建築物に指定されました。
夙川にゆかりのカトリック作家としては遠藤周作と須賀敦子がいます。この教会は遠藤少年が母に連れられてキリスト教という西洋仕立てのぶかぶかの洋服を着せられるに至った場所として彼の作品にしばしば描かれ、遠藤文学の原点といわれています。須賀敦子は小林聖心で早くに洗礼を受けた後、一筋の道を求めてフランスへ旅立ちました。敦子の感性が共鳴したのはイタリアで、日伊の作家を相互に翻訳する忍耐強い仕事は文学における日伊の架け橋となりました。明晰・静謐・澄明なその文体は、古き良き夙川を彷彿させます。
(カソリック夙川教会公式ウェブサイトより)
南側(山手幹線)から見る。尖塔の鐘楼が美しい。
側壁とステンドグラス外側
南東から見る。
東側正面
正面ファサードの細部
大聖堂内部、祭壇は撮影禁止
裏手の雲井橋(阪急電車を渡る陸橋)あたりから見る。
June 2010 撮影・柴田 由紀江
西宮市霞町5−40
竣工:昭和7年(1932年)
設計:ヨゼフ梅木省三
1865年3月17日 長崎大浦天主堂でキリシタンが発見されて以来、日本人の信教の自由が徐々に回復してゆく中で、フランスから渡来した宣教師たちは神戸、大阪の外国人居留地を中心にミッション活動を行っていました。
彼らは月に一度、神戸と大阪を東と西に向かって徒歩で出発して夙川あたりで落ち合い、お互いの活動を報告しあって一日を過ごしたと云います。
明治末から大正にかけて、大阪や神戸の市街地から離れた郊外住宅地が各地に造成されるのを見て、宣教師たちは次の新しい教会を阪神間に建てようと考えます。
1921年11月、夙川教会の創立者S.ブスケ神父は札場筋と旧国道との交差点の借家に「聖なるロザリオの教会」を設立しました。
二年後、神父は夙川(現在地)に土地を購入、神戸居留地にあった「悲しみの聖母教会」の旧建屋を移設して仮聖堂とするとともに、本格的な聖堂の建設計画に取り組みました。
1931年5月に定礎されたヨゼフ梅木省三氏の設計になるネオ・ゴシック様式の聖堂が翌年4月に落成します。
新聖堂はブスケ神父が敬愛して已まなかった聖女テレジアに献げられ、以後夙川教会は「幼きイエズスの聖テレジア教会」とも「小さき花の聖テレジア教会」とも呼ばれます。
戦災を免れたこの聖堂は1995年1月の阪神淡路大震災で大きな被害を受けましたが幸いにも倒壊を免れ、修復を経て現在も夙川のシンボルとして壮麗な外観を保ち、美しいステンドグラスや鐘の音が人々に心の安らぎと祈りの場を提供しています。
専門家によると現聖堂の余命は約20年であり、創立100周年を迎える2021年までにはこの「日本人の手になる昭和初期の優れた西洋建築」を保存・修復するための青写真作成が必要になりました。
現在、夙川教会の信徒数は約2000人で、大阪大司教区では2番目に多い信徒数となっています。
(夙川カトリック教会 公式サイトより)
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