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兵庫県 篠山市 篠山城跡

( Remains of Sasayama Castle, Sasayama City, Hyogo)

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March 24,2019 大野木康夫 source movie

所在地 兵庫県篠山市北新町

国指定史跡

慶長13年、松平康重は丹波八上城に移り、翌14年徳川家康の命によつて新たに篠山に築城、諸大名その工を助け、9月その功を終えた。

松平氏は元和5年岸和田に移り、松平(藤井)、松平(形原)両氏を経て、寛延元年青山氏ここに封ぜられ、明治維新に至った。

城は篠山盆地の平野中に独立する丘陵に営まれた平山城であって、さして高くはないが、盆地の一隅の高山に営まれた八上城を遥に望み、視野は極めて広い。

頂部に方形状の本丸とこれを守る二の丸とを置き、城壁は石垣をもつて堅める。

その裾には内堀をめぐらし、更にこれを略々方形状に三の丸と幅広き外堀とをもって囲む。三の丸の北(大手)・東及び南に開かれた門には何れも馬出を備えている。

本城は山陰道を押える要衝として重きをなし、家康はその堅固に過ぎることを責めたといわれるが、現在内堀は一部を存するのみであり、且つ大手門と南門よりそれぞれ本丸に至る複雑な構が殆ど失われ、大手門また湮滅しているのは惜しいことである。

しかしながら全体の規模はよく遺存し、特に南門の馬出が略々完存し、東門また概ね旧態をとどめていることは、この種遺構の乏しい現在貴重であり、且つ外堀は今なお満々と水を湛えて、方形状の曲輪が同心的に配置された縄張の典型を見ることができ、城郭史上価値ある遺跡である。

(国指定文化財等データベースより)

三の丸外側の水堀

 

二の丸入口付近

                             

二の丸西側の石垣

                                                

二の丸・本丸南側の石垣

工事中で近づくことができませんでした。

      

西側石垣

               

二の丸へ

                        

復元書院・二の丸内部

        

本丸南側石垣

   

本丸西側石垣

    

本丸内部・天守台・八上城遠望

                          

二の丸北側から

              

帰路

         


Sep.16,2016 瀧山幸伸

        


April 12, 2015 野崎順次 source movie

兵庫県篠山市

篠山城跡 丹波篠山さくらまつり

(Cherry Blossom Festival at Remains of Sasayama Castle, Sasayama City, Hyogo Pref.)

満開は過ぎて、散りかけだが、まだ楽しい。

JR篠山口からバスで

         

篠山城跡

                                                                                                                                                                               

アトラクション

                                                       

帰途

                       

 


May.2010 撮影/文 野崎順次

兵庫県篠山市

国選定重要伝統的建造物群保存地区

国史跡 篠山城跡

( Remains of Sasayama Castle, Sasayama, Hyogo)

撮影日: 2010年5月8日

篠山城の築城は、慶長14年(1609)徳川家康の命によって、大坂城攻めの備えと、西国地方への抑えの拠点として、交通の要衝の地である丹波多紀郡の篠山盆地中央部の「笹山」と呼ばれた小丘を利用して築城された。

築城は約20諸侯の西国大名に賦役を命じた、いわゆる天下普請によって行われ、普請総奉行に池田輝政、縄張り奉行に藤堂高虎があたった。築城にあたって家康は、前年の慶長13年(1608)に家康の実子との伝えがある松平康重を常陸の国(茨城県)笠間から丹波八上城へ転封を命じ篠山に築城されることとなった。

築城の状況を伝える「篠山旧記御城取立」によると,工事は慶長14年3月に始まり、9月中には石垣の本体がほぼ完成し、同年12月に松平康重が初代の城主として入城している。城の工事はその後約1年続き、町並みの整備も進められた。

縄張りは環郭式を基本とするもので、高石垣で囲まれた本丸と二の丸を中心にして、犬走りと約20メートル馬場の内濠と三の丸,外濠の順に方形に配置されている。

城の虎口は,北と東、南の3カ所に馬出が造られ厳重な備えとなっている。外濠周辺には、家臣の屋敷が配置され、更に屋敷地の東側から北側及び西側には山陰道を引き入れた町屋筋が取り巻いている。

城主は松井松平氏1代,藤井松平氏2代、形原松平氏5代、青山氏6代と続き明治維新を迎えている。

石高は当初から5万石であったが、第12代篠山城主青山忠裕が老中を30年間努めた功により文政10年(1827)1万石を加増され以後6万石となっている。

廃藩後、城の建物は大書院を残して一部の門が移築された他はすべて取り壊された。後、大書院も1944年まで残っていたが焼失し,城の建物はまったくなくなってしまったが、本丸及び二の丸を構成する石垣と周辺の犬走りと内濠及び、三の丸、外濠、大手馬出を除く南と東の馬出など城郭の主体部を構成する遺構がよく残っており、昭和31年(1956)12月28日に国の史跡指定を受けた。

南側の外堀から三の丸に入り、内堀越しに石垣を見る。南の三の丸はクサッパラで、自転車の練習をしている母娘以外に人影はない。内堀には大きなカエルがプカリ、プカリ。

                                                                                   

篠山城には馬出が北(大手)、東、南の三ヶ所にあって、北を除いて残存している。南の馬出が一番規模が大きく、搦手(裏門)の防衛を重視したと思われる。幅約40メートルの堀に囲まれ、高さ約4メートルの土塁が残存し、水面下まで石垣を用いずに築かれた「土塁の馬出」であって、わが国で現存する唯一の貴重な遺構である。

                       

外堀沿いに東に歩き、さらに北に行くと東の馬出がある。

                             

土の橋を通って東門跡から北側の三の丸に入る。石垣を見ながら、西に進み、北側の大手馬出の跡を見てから、城の入り口(北廊下門跡)に向かう。

                                                         

城の入り口から入り、屈曲して登ると石垣の上の二の丸である。復元された大書院がある。

                                                                   

さらに階段を上ると本丸である。さらに高い天守台や城主青山家由来の青山神社などがある。

                                                   

日が暮れてきた。大書院のかなたに日が沈む。

           

参考資料

篠山市HP

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