兵庫県篠山市 御徒士町
(The Former Okachimachi Samurai Quarter, Sasayama, Hyogo)
Category |
Rating
|
Comment
|
General
|
|
|
Nature
|
|
|
Water | ||
Flower |
|
|
Culture |
|
|
Facility |
|
|
Food |
Sep.16,2016 瀧山幸伸
March 28, 2015 野崎順次 source movie
兵庫県篠山市
篠山重要伝統的建造物群保存地区
御徒士町武家屋敷群
(The Former Okachimachi Samurai Quarter, Sasayama City, Hyogo Pref.)
当保存地区がある城下町篠山は兵庫県の中東部、篠山盆地の中央に位置する。
当地区の歴史は慶長14年(1609年)、天下普請により篠山城が築かれ、伴って城の四方に城下町が整備されたことに始まる。初代城主は松平康重であった。のち寛延2年(1749年)、青山忠朝が丹波亀山藩から移封され、以後青山氏が城主となる。篠山では築城直後から城下町の整備が進められ、城の外堀周囲には侍町が配されていた。しかし明治時代に多くが破却・売却され西側のみに風致をとどめている。城郭の南東の山陰道沿いは町屋が配されて、近世から近代にかけての建造物が現在も軒を連ねている。
この保存地区の範囲は東西約1500メートル、南北約600メートル、面積は約40.2ヘクタールに及び、城跡とその西側・南側の旧武家地、城の東方の旧山陰道沿いの町人地を含む。
(ウィキペディア「篠山市伝統的建造物群保存地区」より)
御徒士町武家屋敷群
現地説明板など
今年はウメの咲くのが遅れたので、いまだにきれいだ。
西新町を南北に貫く直線道路沿いである。北から南に歩く。
武家屋敷安間家史料館
パンフレットと建物外観
建物内部
史料展示
それから
県文 小林家長屋門 江戸後期 文化年間(1804頃)
入母屋造、茅葺
南馬出
南新町のお濠沿いの道を東へ歩く。梅がきれい。
May.2010 撮影/文 野崎順次
国選定重要伝統的建造物群保存地区
御徒士町武家屋敷群
撮影日: 2010年5月8日
慶長14年(1609)に篠山城が完成し,城下の町割りが行われ御徒士町もその時にはじまっている。
城の西側の濠ばたの道に平行して、西側に南北の通りをつけ、道の両側に徒士を住まわせた。
この時に割り当てられた間口は、平均8間であったことは現状の境界などから復元的に確かめることができる。
その後の経過は定かではないが、天保元年(1830)に火災があって、大部分が焼失したと伝えられる。
復興に際して、道路の西側は、屋敷を約6尺後退させ、火災などの災害に備えたという。
現在でも西側は、道路と土塀の間に犬走り状の空き地を持っているが、これがその時のものだといわれる。
だから、現存する徒士住宅の大部分のものは,天保火災後に建てられたことになる。
その後、明治維新までは変化がなかった。
しかし、廃藩置県後は江戸詰めの家臣を中心にして篠山を引き払って東京などへ移住していったが、御徒士町に住む人々は、他への転出が少なく、その結果、武家屋敷としての景観が保存されることとなった。
御徒士町には今なお、10数戸の武家屋敷住宅が存在して、当時の面影をよくとどめているが、このことは全国的にみてもすばらしい歴史遺産である。
濠ばたや馬出し周辺の武家屋敷と一体となって、静かな城下町の一角を形成し、優れた歴史的景観を呈している。
御徒士町の特徴
現存する御徒士町の特徴は、次のようになる。
(1) 武士の居住である。
(2) 建立年代はほとんどのものが、天保元年(1830)以後、ほどなく建てられたものである。
(3) 各屋敷の間口は8間の割である。
(4) 各住居は、禄高、扶持数とも大きな差がないにもかかわらず、規模や部屋の構成に自由さがみられる。
(5) 屋敷の出入り口は、築地塀に門を開き、土間に格子戸を用いている。
(6) 「右ずまい」住居で、座敷は北にくるから、東に縁をつける。従って床間は北にしつらえる。座敷の日照は東側より得ている。曲屋やの部分は屋敷の西側をのばしてつくるが、ここに南に開口を設けて日照を得ている。
(7) 町並みとしては篠山における最も古い景観を今に伝えている。
安間家史料館
小林家長屋門
参考資料
篠山市役所公式HP
丹波篠山五十三次ガイド
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中