兵庫県神戸市須磨区 須磨寺
Sumadera, Sumaku, Kobe,Hyogo
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神戸市須磨区須磨寺町4-6-8 福祥寺本堂内宮殿及び仏壇 重文 近世以前/寺院 室町前期 応安元(1368) "宮殿 三間宮殿、正面軒唐破風(後補)付、板葺仏壇 三重仏壇" 19530829
神戸市須磨区須磨寺町
真言宗須磨寺派大本山
上野山 須磨寺(正式には福祥寺)
撮影日: 2012年6月10日
須磨寺略歴縁起(寺蔵)によれば兵庫県和田岬海中より出現し給える、聖観世音菩薩を安置するために淳和天皇の勅命により、兵庫県の背山恵偈山北峰寺を建立する。後に、仁和2年(AD886年)光考天皇の勅命により開祖聞鏡上人須磨上野山福祥寺を建て本尊と祀る。南北朝時代から江戸時代にかけて歴代住職が書継いだ、当山歴代(県指定文化財)によれば、本尊聖観音は嘉応元年(AD1169年)源頼政が安置したとある。
いろいろとにぎやかなお寺である。
須磨寺真言宗十八本山霊場
新西国第二十四番霊場
摂津西国第七番霊場
摂津八十八ケ所第八十八番霊場
福原西国第七番霊場
神戸七福神霊場
神戸六地蔵客番霊場
神戸十三仏霊場
山陽電鉄須磨寺駅から真直ぐ北へ(智慧の道とある)
須磨寺説明
正覚院、龍華橋、仁王門あたり
参道の東側、貞照寺、蓮生院
参道の西側、桜寿院、源平の庭、社務所前の石造物
唐門へ至る石段途中の厄除大師堂
唐門と社務所
本堂 慶長七年(1602)
豊臣秀頼が再建したもので、建築奉行は片桐且元でした。
国重文 福祥寺本堂内宮殿及び仏壇 室町前期 応安元年(1368)
宮殿 三間宮殿、正面軒唐破風(後補)付、板葺
仏壇 三重仏壇
本堂陣奥の収納庫に安置され、須弥壇の上層は和様、下層は唐様の和唐折衷様式を特色としている。中には三体の仏様がお祀りしてあり、中央には和田岬の海中から出現され、33年に一度だけ御開帳される秘仏の座像の聖観世音菩薩、右には県指定重要文化財でもあり「応安二年、方印康俊作」の足部銘を持つ立像の不動明王、左には毘沙門天がお立ちになる。また、当山を開創された聞鏡上人と平敦盛卿の御位牌もお祀りされている。
本堂の西隣に、大師堂、経木供養所、その間に源義経卿腰掛松。
さらに神功皇后釣竿竹、五尊石仏、黄銅狛犬。
三重塔
境内の西側、墓地の手前には、敦盛首塚を中心に、石仏、慰霊塔などが並ぶ。
書院の入口あたりに、青葉の笛の歌碑とボタンを押せばメロディーの出る装置、五十嵐播水先生句碑
書院と本坊
境内の東側には弁慶の鐘、写経輪堂
十三重石塔
東側の墓地
帰途、同じ智慧の道を戻り、山陽電車に乗った。
参考資料
須磨寺HP
Apr.2010 撮影:中山辰夫
神戸市須磨区須磨寺町4−6
真言宗須磨寺派大本山
本尊:聖観世音菩薩坐像(しょうかんのんぼさつざぞう)(国重要文化財)
車通りの多い商店街を抜けると参道となる。
須磨のお大師さんとして親しまれる源平ゆかりの寺である。
一の谷や合戦にまつわる青葉の笛や弁慶の鐘などがあり、境内には平家物語の画面を再現した“源平の庭”がある。
広大な境内にはビッシリと建造物が並ぶ。震災時の倒壊で、その後に再建された堂宇が多く含まれている。
毎月20、21日の「お大師さん」には参道に屋台が沢山出て参詣者が道にあふれる。
真言宗須磨寺派の大本山。一般には須磨寺として知られているが、正式には福祥寺である。
淳和天皇(823〜33年)のころ、和田岬の沖で漁師が聖観音像を引き上げ、会下山(えげやま)の北峰寺に安置していたのを、
886年(仁和2年)に聞鏡(もんきょう)上人が須磨の地に移したのが始まりとされる。
以後、1155年(久寿2年)には源頼政が堂宇を寄進し、さらに1596年(文禄5年)の地震で堂宇が倒壊したのを、1602年(慶長7年)、豊臣秀頼が復旧し、片桐且元も建物を寄進した。もとは12坊あったが、現在は3院だけ残っている。
室町時代に建てられた本堂内の宮殿(ぐでん)・仏壇や、木造の十一面観音立像、絹本着色普賢十羅刹女像など国指定の重要文化財も多く、境内には正岡子規や芭蕉などの文学碑も沢山ある。
1891年(明治24年)頃、寺の南に千本の桜が植えられ、須磨大池とともに新吉野と言われる桜の名所となり、花時には人出で賑わったが、今はその景勝は見られない。
正覚院
龍華僑の手前に建つ。塔頭三院の一つで、本尊は愛染明王。霊験あらたかなこの明王は幸運を開き、愛嬌を授かるといわれる。
龍華僑
仁王門
源三位頼政の再建 仁王力士は運慶・湛慶の作と伝えられる。
境内に入ると右側に、阪神・淡路大震災の犠牲者を弔う慰霊碑がある。今年は十五年目。当山では毎年震災慰霊法要を行なっている。
その横に弘法岩五鈷水がある。
桜寿院
塔頭三院の一つで本尊は阿弥陀如来。平成7年(1995)に震災で倒壊。平成13年(2001)に再建された。
千手観音菩薩
蓮生院
塔頭三院の一つで、本尊は不動明王。震災で倒壊。平成18年(2006)再建された。
源平の庭
本堂に向かって左側にある。平の敦盛と熊谷直実の一騎打ちの姿が再現されている。直実に討たれた敦盛の話は平家物語の中で最も悲しく哀れを誘う物語として名高い。
庭前には、「笛の音に波もよりくる須磨の秋」の蕪村句碑があり、庭の角には弁慶が「一枝を伐らば一指を剪るべし」と制札を立てた、 歌舞伎「一の谷嫩軍記」にも登場する「若木の桜」がある。
宝物舘
庭の前にある。一騎打ちのときに敦盛が身につけていたという愛用の青葉の笛、敦盛の木造など源平関係の宝物が公開されている。
書院・本坊
本堂と共に須磨寺の一山の中心で、本尊は阿弥陀如来。1絃須磨琴の保存会本部にもなっている。
大師堂 平成19年修復
宗祖弘法大師が祀られている。毎月二十日、二十一日に「須磨のお大師さん」として縁日があり、十数万の信者の参詣がある。
大正時代の一時期、この堂には孤独奇矯の自由律の俳人尾崎放哉が堂守りとして住み込んでいた。
彼はここで多くの句作を残したが、特に「こんなよい月をひとりで見て寝る」の句は最傑作として、今、本堂前の句碑に刻まれている。
経木供養所
本堂
開創当時は、在原行平が参篭して、勅勘を許されたと伝えられる。
現在の本堂は慶長7年(1602)に豊臣秀頼が再建したもので、建築奉行は片桐且元である。
ただし、内陣の宮殿は応安元年(1368)の建造で、国重要文化財である。本尊は聖観世音菩薩である。
脇侍毘沙門天、不動明王も祀られている。昭和47年(1972)文化庁の指導で全面解体修理が行われ、六百年前の姿に復原された。
この後、阪神淡路大震災の被災を乗り越え、平成17年にも復元のための修理が行われ現在の姿になっている。
護摩堂
明治36年(1903)に再建された。
唐門
写経輪堂
三重塔
弘法大師1150忌、平敦盛800年忌、当寺開祖1100年を記念して昭和59年(1984)に再建された。
旧塔は400年前の文禄大地震の際に倒壊した。
須磨琴
須磨琴は一枚の板に一本の絃を張っただけの、きわめて簡単、原始的な小琴である。
古いものは、板の厚さも均一で、現行のものは胴板の裏をくって共鳴を計っているが、 いずれにせよ、本格的な共鳴装置を持たないので音量が小さく、清華で素朴な音を発する。
須磨琴、一絃琴、板琴、独絃琴、ひとつ緒の琴、などの呼び名がある。
全体の形はおそらく七絃琴を模したものと思われるが、角型の一端から始まって、 次第細そりに丸型の他端で終わり、その途中、両側の二ヶ所ずつに半楕円形のくり込みがある。
角型の広い方の端を龍頭といい、丸く狭い方の端を龍尾と呼ぶが、全体として龍の形を連想させる。
規格は必ずしも一定しないが、須磨寺所蔵の覚峰作の最古の一絃琴では、 厚さ一・三センチ、長さ一一三センチ、幅は龍頭部で一二センチ、龍尾部で八センチ、 くり込み部で七センチ(いずれも概測数)となっており、他の琴も概ねこれと似た数値を示す。
中には一年の日数に準じて、長さを三尺六寸六分に定めたものもある。
当時には須磨琴保存会があり、昭和51年(1976)兵庫県の無形文化財保持者に指定され、伝承につとめている。
句碑
古来より源平のロマンを偲んで訪れた松尾芭蕉・与謝蕪村・正岡子規ら文人墨客も多く、句碑・歌碑が点在している。
所有の国重要文化財
須磨の歴史アレコレ
「須磨」という地名の由来には
①畿内と西国の境目で、畿内の隅から「すみ」がなまって「すま」となった
②州浜から州間のなった
③住みやすいという意味で「栖間」という言葉が縮まった
④諏訪神社の「すわ」がなまった
などの諸説がある。
今使われている字は鎌倉時代から使われており、それまでは須末、州磨、周磨、珠間、などいろいろな字が当てはめられていた。
平安時代には、畿内の端という地理的条件のせいか、貴族に対する処罰の流刑で、もっとも軽い近流の場にもなっていて、六歌仙在平業平の兄在原行平や、「源氏物語」の主人公の光源氏が流されている。
この須磨寺草創期で注目される出来事に、在原行平が須磨にいた時に、松風・村雨という姉妹の海女を愛したという伝説や、須磨滞在時の寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木辺から一弦琴「須磨琴」を製作したり、草創当時の須磨寺に参篭し、勅勘を許されたことや、この行平がモデルとなった光源氏も須磨寺に参篭して、その時に桜を植えたという伝説を残したことがあげられる。
また少し後のことになるが、菅原道真が太宰府に流された時に須磨に立ち寄り、その時の故事から板宿・飛松などの地名が付いた。
松風村雨堂(まつかぜむらさめどう)
神戸市須磨区離宮前町1
在平業平の兄行平に愛された、松風と村雨の庵跡。
この地に流された行平が都へ去った後も、姉妹は観世音菩薩に行平の無事を祈り続けたという。
荒れた小堂は改築され、静かな佇まいとなっている。
在原行平は仁和二年(八八六年)光孝天皇の怒りにふれ須磨の地に配流されて寂しく暮らしていた。
その時、潮汲みに通っていた多井畑の村長の娘"もしほ""こふじ"の姉妹をいとおしく思い、松風・村雨の名を与え仕えさせた。
三年の歳月がたち、許されて京都に帰る行平は、小倉百人一首で有名な
「立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かばいま帰り来む」
の歌を残し烏帽子・狩衣をかたわらの松の木に掛け、姉妹たちへの形見とした。
二人の姉妹はたいそう悲しんで庵を建て観世音菩薩を信仰し、行平の無事を祈っていたが、後、多井畑へ帰り、わびしく世を去った。
(現地 案内による)
参考資料《パンフレット HP 兵庫県の歴史散歩、他》
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