岩手県花巻市 円万寺観音山
Enmanji Kannonyama,Hanamaki City,Iwate
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円万寺 観音山
所在地:岩手県花巻市膝立字観音山85
1,概要
花巻市の西にある観音山は標高180m。円万寺観音堂と八坂神社が並んで建っており、かつての神仏習合が盛んであった時代の姿を彷彿とさせる。観音堂も神社もしわがれた木材の錆色で歴史が重く感じられる。高台に位置するため、遠くに早池峰山もみられることから展望地としても人気が高く、眼下にある水田の風景を見るためだけに観音山に登ってくる人も多い。水田の時期は朝も晩も陽に映えて美しい田園風景があり、秋の紅葉も眼下は見わたす限りの秋色で“花巻八景”として登録されている。ただし冬は積雪で通行止めも有り。
2,八坂神社
膝立第一地割郷村社。創設は807(大同2)年。蝦夷征伐のためにこの地方にやってきた坂上田村麿(さかのうえ の
たむらまろ)が持仏の観音を祀ったのがはじまり。祭神は須佐男命。坂上田村麻呂は、平安時代の公卿、武官。4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残した。(※征夷大将軍……朝廷に従わない東北地方の蝦夷(えみし)を征討(せいとう)するための臨時の将軍のことで、武士の棟梁(とうりょう)の称号となった。(ウキィペディア要約)
1872(明治5)年の廃仏毀釈で円万寺観音堂の本尊を山の麓の草堂に移し、観音堂にそれまで円万寺の矢河というところにあった八坂神社を奉遷し、部落の氏神として崇拝した。廃仏毀釈もおさまったので本尊を観音堂に復させ、1908(明治41)年、本殿、拝殿が新築されている。
3、観音堂
御本尊は、坂上田村麿が807(大洞2)年に勧請した馬頭観音で、近郷近在の人々の篤い信仰を集めていたが、明治初年に起きた廃仏毀釈の運動を避けて、太田の清水寺に移し匿った。廃仏毀釈の運動が終息してから、麓に草堂を建立し、1879(明治12)年に清水寺から御本尊を奉遷したと伝えられていた。しかし、その後、いつの頃からか御本尊の所在が不明。そのことを聞いた多田等観(秋田出身の日本の僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を修行)は、非常に悔しんでチベットのダライ・ラマ第13世法王請来し、ことのほか大事にしていた千手千眼十一面観音像を1947(昭和22)年観音堂の御本尊として寄贈奉安した。また、1992(平成4)年には、八坂神社宮司の佐藤家が、同家に伝わる観音像を観音堂に遷座し、多田等観が寄贈の観音像とともに須弥壇におかれている。佐藤家から遷座の観音像は、岩手県立博物館では銅造十一面観音座像懸仏で、室町時代の制作であると説明している。現在の観音堂は、1851(嘉永4)年の建造。1963(昭和38)年に萱葺き屋根を亜鉛メッキ銅版葺きに葺き替えをしていたが、40余年も経過し、各所が破損したので、2005(平成17)年全面葺き替えをして現在に至っている。
4、円万寺神楽
花巻に伝承されている神楽は、山岳信仰に基づく修験者集団によってもたらされた山伏神楽がその主流。どの伝承経路から早池峰岳神楽系、円万寺神楽系、和賀大乗神楽系に大別される。円万寺神楽は古くから、観音信仰を背景に栄えた湯口地区の円万寺(花巻市膝立字観音山)を拠点に、早池峰神楽、和賀大乗神楽とほぼ同時期に伝えられたとされている。
かつて修験者たちは毎年霞(縄張り)の村々を巡回し、悪魔払い、火伏の権現舞を行なったといい、現在、権現舞はもとより、式六番の舞、多数の狂言等を演目として伝承している。
5,正慶の碑
花巻市指定有形文化財(歴史資料)。この碑は、1332(正慶元)年が刻まれた碑で、この地方の領主が戦死者供養のために建立したと推定。碑面には、梵字や蓮華座が刻印され、彫りは雄渾で明瞭だが、文字部分は彫りが浅く、風化が進み判読しにくくなっている。明治の初め頃、八坂神社を矢河の地(現・花巻市円万寺矢川)から観音山の現在地に移した際に、この石碑も一緒に移したといわれ、もとは正慶2年の碑と同じ場所にあったものと考えられている。正慶元年は北朝の年号で、南朝年号の元弘2年に当たり、花巻地方では北朝の勢力が優勢であったことを示す一つの資料となっている。
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