岩手県平泉町 中尊寺
Chusoniji,Hiraizumi town,Iwate
June 11,2025 柚原君子
月見坂
中尊寺は標高130メートル。陸羽街道(国道4号)の駐車場の直ぐ脇から表参道である月見坂の上りがはじまる。江戸時代の伊達藩によって植樹された樹齢300年を越える杉の巨木が両側に続き、夏でも涼しい木陰を作っている。丘陵上に諸堂が点在する。山内には中尊寺本坊のほか、17か院の子院がある(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)。
八幡堂
創建は1057(天喜5)年。本尊は阿弥陀如来尊像。八幡堂の当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家が俘囚(陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者)の長である安倍氏を討つ(前九年合戦)為、中尊寺境内月見坂のこの地で戦勝祈願した事が始まりとされる。鎌倉時代の歴史資料である「吾妻鏡」では中尊寺の年中行事の中で八幡神社で法会が行われた事が書かれている。明治に発令された神仏分離令により、八幡神社から八幡堂となる。社殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行2間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。
弁慶堂
弁慶堂は1827(文政10)年建立。御本尊は勝軍地蔵。古くは愛宕堂と称されていた。平泉は武蔵坊弁慶が源義経を守り、全身に矢を受けて立ちながら亡くなったとの伝説が残っている地。明治以降に義経・弁慶の木像を安置し、弁慶堂と呼ばれるようになった。
木造平屋建て入母屋造り、銅板葺き、平入、桁行3間、張間2間、正面1間向拝付き。外壁は真壁造り板張り。向拝木鼻には獏や唐獅子、欄間には龍などかなり細かい彫刻が施されていて、見応えがあり荘厳である。堂内が少し雑雑といろいろなものが置かれていて少し残念だが、堂内格天井には60種余りの草花が描かれていて美しい。見晴らしも良く、束稲山、東北新幹線、北上川が見える。
案内板全文
「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である」
地蔵堂
1877(明治10)年の再建。御本尊は地蔵菩薩尊。また隣に建つ祠には道祖神がまつられている。地蔵菩薩尊は密教では菩薩形だが、普通は頭をまるめた僧侶の立ち姿で宝珠と錫杖を持つ姿が一般的。その多く石に刻まれて路傍に建てら一般民衆にもお地蔵様として拝まれている。救いのはたらきや霊験、形、置かれた地名などによって、とげぬき地蔵、勝軍地蔵、延命地蔵、親子地蔵、腹帯地蔵、雨降地蔵、お初地蔵などの名がある。堂内には少し首を傾けたような、錫杖と宝珠を持たれ田優しいお顔と対面できる。地蔵堂の直ぐ脇に売店が有り御朱印有り。地蔵堂の後ろから北上川と衣川が合流する場所が望める。ここは源義経が最後をむかえたと言われる「衣川の戦い」の跡地。私の写真は少しぼけてしまったので残念ながらアップできない。
薬師堂
1657(明暦3年建。1885(明治18)年の改築。その後雨漏りもひどくなったので2020(令2)改築。御本尊は薬師如来他に日光菩薩・月光菩薩と十二神将を安置。また和歌山県熊野より飛来したと伝えられる熊野権現の御神体を祀っている。建物構造は木造一重,入母屋造,正面向拝三間付,銅板葺。
案内板要約
「この薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されております。また薬師如来の分身または化身とも言われる十二神将が併置されているのは中尊寺山内の薬師堂としては当座しかありません。・・・(中略)この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心にさかんに行われました。特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。またこの御堂には子安地蔵が安置されている。その由来は出産や育児のための信仰で、神道では木花咲耶媛を祭神としている神仏習合で、子安観音が祀られている。」
令和2年の改築とあって木目も新しい薬師堂。入口が閉まっているのでご本尊にはお目にかかれなかった。残念。
観音堂
御本尊は観世音菩薩。造りは木造一重,宝形造,向拝付,銅板葺。
願成就院観音堂の立て札とお堂の中には冠をつけられた菩薩様が立ち姿でいらっしゃるが、なぜだか中尊寺のパンフレットには載っていない。不思議な静けさ。通り過ぎても不思議でない静けさ。
本堂
中尊寺は奥州の中心に位置するの意味と解釈され、岩手県平泉にある天台宗の東北大本山一山の寺院。
850(嘉祥3)年に慈覚大師円仁が開山。12世紀はじめ、奥州藤原氏初代の清衡公が前九年・後三年の合戦で亡くなった命を供養するために造営したと伝えられる。
中尊寺は17ヶ院の塔頭寺院が集まってその住職たちによって運営されている。金色堂をはじめとして、3000点を超える国宝・重要文化財を伝える平安仏教美術の宝庫。2011(平成23)年、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」としてユネスコの世界遺産に登録された。
古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められ、表門は伊達家の薬医門の移築と伝えられる。
本堂は1909(明治42)年建築。ご本尊は釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像。中尊寺の大壇主藤原清衡が「丈六皆金色釈迦」坐像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい2013(平成25)年に造顕・開眼供養された。
(以前は小さな阿弥陀如来であったが、900年前の藤原清衡が落慶式の際にお寺に奉献した「供養願文」に由来する。供養願文には「ご本尊は一丈六尺の釈迦三尊」と書かれており、中尊寺ではいつか創建当初と同じように一丈六尺のお釈迦様を御本尊としてお迎えしたいという悲願が実現した。仏様の手の形は少し違っているが、これも宝物館に収められている国宝「中尊寺経」の見返し絵にお釈迦様が説法している絵が描かれており、これにちなみ、説法印のお釈迦様を造立した。2011年の東日本大震災で本堂は倒壊しなかったものの白壁はすべてくずれ計画は途中難航したこともある。)
中尊寺の寺格は別格大寺、天台宗東北大本山であるので、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来延暦寺に1200年続く「不滅の法灯」が護持されている。また、1万八千余名の命を奪った東日本大震災の七回忌の供養石碑が本堂右に建っている。深く合掌をした。
峯薬師堂
峯薬師堂はもとは経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、度重なる野火にもあい、1573~1591(天正年間)に荒廃するも1689(元禄2)年に現在の地に再建される。現在の御堂は昭和57年の改築。
御本尊は丈六(約2.7m)の薬師如来座像。桂材の寄木造りで金色に漆を塗り金箔をおいたもの。藤原末期の作で現在重要文化財として讃衡蔵に安置されている。その代わりに現在は薬師如来を中心に日光菩薩、月光菩薩の三尊とし、堂の改築を契機に昭和63年、前立本尊として仏師松尾秀麻師の謹刻になるものが安置されている。堂に向かって右傍に建つ石造の宝塔は12世紀のもので、重要文化財に指定されている(残念ながら写真に撮って来れなかった)。
また、峯薬師堂は目に御利益があり絵馬は目の病気を治す願掛けが多く書かれ、め、との字が目を引く。脇の池にはとても大きな白い塊が目につく。蛙の卵の様子だ。
大日堂
御本尊は金剛界大日如来像。右側に千手観音、左側に両脇に童子を連れた不動明王を安置。金剛界大日如来さんは「智慧」の大切さを説く仏様。左手の人差し指を立て、それを右手で包み込む智拳印というポーズを取る。1802(享和2)年再建。
木造一重,宝形造,銅板葺
鐘楼
鐘楼は1339(建武4)年の火災で焼失。梵鐘は1343(康永2)年鋳造。銘には中尊寺の創建や建武の火災のことなどが記されている。梵鐘は高さ113.2cm、口径86cm。
鐘楼は木造平屋建て、宝形屋根、茅葺、桁行1間、張間1間、外壁は真壁造り板張り、外壁上部は鐘の音が外部に響くように格子、出入り口も升形の格子となっている。
梵鐘は南北朝時代の1343(康永2)年に金色堂別当頼栄の発願により鋳造されたもので、中尊寺の歴史を知る上でも貴重な存在である事から1979(昭和54)年に岩手県指定文化財(工芸品)に指定されている。撞座が摩耗しているので、今ではこの鐘を撞くことはほとんどないが、東日本大震災関連の追悼行事十三回忌では震災発生時刻の14時46分に鳴らされた。
阿弥陀堂
1715(正徳5)年再建。御本尊は阿弥陀如来。蔵王大権現と大黒天を合祀。正字体で 「阿彌陀堂」と書かれが文字が良い。
金色堂(国宝)
中尊寺は、藤原清衡が後三年の役(1083年、平安時代後期の陸奥、出羽を舞台とした戦役。
奥羽を実質支配していた清原氏が滅亡し、勝利した藤原清衡を祖とする奥州藤原氏が登場するきっかけとなった)後に造営を始め、1105(長治2)年に最初院、1107(嘉承2)年に二階阿弥陀堂を建て、清衡晩年の1124(天治元)年に金色堂を完成させた。金色堂は清衡の歿後、四代にわたって藤原氏の墓堂となり、内陣中央須弥壇内に清衡棺、両脇外陣奥の須弥壇内に基衡、秀衡の棺と四代泰衡の首級を合祀している。
関山の山上・山下に栄華を誇った創建伽藍は、1337(建武4)年に金色堂と経蔵を残し火災で焼失した。
金色堂は小規模な一間四面堂で、構造は丸柱上の組物に平三斗、中備に本蟇股を用いた簡単な形式とし、軒は反りの強い二軒の角繁垂木、宝形屋根には類例の少ない木瓦葺を用いている。堂は縁側から軒先に至る内外すべてに黒漆を塗り、金箔を押している。
内陣の四天柱、長押、組物には豪華な沃懸地螺鈿の宝相華唐草文を飾り、四天柱には蒔絵の菩薩像を描き、仏壇全面を彫金、鋳金、鍛金による飾金具で覆うなど、漆芸・金工による建築装飾の粋をつくしている。また三仏壇蔵に安置される阿弥陀三尊、六地蔵、二天各像をはじめ、天蓋や礼盤・磬架・案・華鬘などの荘厳具一式まで創建時のままに残され、美術史上の価値もきわめて高い。なお、内陣四天柱には、八角形の心木に八枚の材を打ちまわす巻柱のめずらしい手法がみられる。
建立後まもなく軒下に霧除けを、鎌倉時代に覆堂を設けたために、保存状態はきわめて良い。(文化遺産データベース要約)
中尊寺HP要約
↓
「金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物の、光堂とも呼ばれる阿弥陀堂建築様式の方三間の小堂、阿弥陀堂である。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした清衡の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約された御堂。建物の内外を総金箔張りとすることからこの名がある。
現在は鉄筋コンクリート造りの覆堂内にある。内外に金箔の押された「皆金色」と称される金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた夜光貝を用いた螺鈿細工で、その他象牙や宝石によって飾られている。須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従えておられ、他に例のない仏像構成となっている。
この中尊寺を造営された初代清衡公をはじめとして、毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を奥州に招きいれた三代秀衡公、そして四代泰衡公の亡骸は金色の棺にミイラ状態で納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇のなかに今も安置されている。
仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた藤原氏初代清衡公が、戦いで亡くなった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔である」。
写真は厳禁なので内部は一枚も撮れなくて、仏様方を目に焼き付けて退出。当時の黄金を偲ぶ鈍いおごそかな金色になっていて何度も拝んでしまった。出口に記念写真が撮れるように内部の様子を表わした布絵があったので記念撮影をした。
辨財天堂
御本尊は弁財天十五童子(べんざいてんじゅうごどうじ)。8本の腕を持ち、手に弓などをとる。1705(宝永2)年、仙台藩主伊達綱村公の正室仙姫によって寄進された。とてもふくよかなお顔で気取ったところがなく見つめていると気持ちが和む。堂内には千手観音菩薩二十八部衆(せんじゅかんのんにじゅうはちぶしゅう)も安置されている。
堂宇は1716(聖徳6)年建立。建物構造は、木造平屋・寄棟・茅葺・平入。桁行3間、張間2間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り、高床式、高欄付き。辨財天はインドの薩羅我底河より生じた神様で水に関係があり堂は概ね水のある小島に建立される。中尊寺辨財天堂之周囲も池である。
経蔵
経蔵は、中尊寺経(国宝)を納めるために建立された堂で1929(昭和4)年、国の重要文化財に指定されている。現在の建物は鎌倉時代の建物だが、「中尊寺建立供養願文」によると、創建されたのは1122(保安3)年軒札が残され、その主旨が記されている。「2階瓦葺」であったが、1337(建武4)年の火災で上層部を焼失。その後、一部に平安時代の古材を使用して再建。木造平屋建て宝形造、銅板葺、桁行3間、張間3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り当初のあざやかな彩りや飾りは長い歳月によって色は落ち金色堂とは対照的な趣になっている。
内部には螺鈿八角須弥壇(国宝)が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者四体からなる文殊五尊像 (国重文) が安置されていた。
ご本尊(重文)と三方の経棚に納められていた紺紙金字一切経(国宝)は2000(平成12)年に宝物館「讃衡蔵」に移され保存されている。現在の経蔵には金色に光る新たな騎師文殊菩薩が安置されている。
経蔵にあるご本尊の騎師文殊菩薩は写真に撮れない。姿は獅子に乗った文殊菩薩。獅子に乗っているので「騎獅」となるはずだが、中尊寺の文殊菩薩は「騎師」。獅子は尊い動物なので獣ではないとのことで、けものへんを除いて「騎師」と書く。
関山天満宮
中尊寺境内の一番奥にある関山天満宮は、階段が多くある上の方にある。膝腰に自信が無いので階段の下から写真を一枚。御辞儀をした。天満宮の建つ地は平安時代中期に源頼清が陸奥守だった際に衣の関を守護し世の平安を祈願するため弓矢を奉納し天神地祇を祭ったとされる場所。
説明板要約
「鎌倉時代、菅原道真公の第十四世孫・五条為視が勅令により奥州平泉に下向の折、出生した乙王丸(後の中尊寺経蔵別当第十三世行栄)に、京都北野天満宮より勧請した道真公の御真影と観世音菩薩を授け。以来お祀りしている」。
社殿は切妻造、銅板葺き、平入、桁行2間、張間1間。内部の宮殿は一間社入母屋造、檜皮葺、妻入。
旧覆堂
覆堂は金色堂を風雪から護るために、金色堂が造営されてから164年後の1288(正応元)年に鎌倉幕府によって建てられた。近年の調査では学術的には軒や斗拱の細部手法から鑑みて室町時代中期頃と推定される。覆うの意味から「鞘堂」との呼称もある。
1963(昭和38)年に新覆堂が建設されたので旧覆堂として現在地に移動。
形式は木造平屋建て、宝形造、銅板葺、桁行5間、張間5間、外壁は真壁造り板張り、正面は柱のみの吹き放し、華美な装飾を廃した質素な建物(屋根はもと茅葺であったが後に桟瓦葺となり、現在は銅板葺)。現存する数少ない中世の覆堂建築の遺構として大変貴重な事から1929(昭和4)年に重要文化財指定を受けている。旧覆堂は八百年忌の一本柱が中心に立ち金色堂を護ってきた力強さが感じられた。椅子があり覆堂の修復などのビデオが流されている。
大長寿院(西谷坊)
大長寿院(西谷坊)は、中尊寺の塔中(支院)の一つ。
850(嘉祥3)
年、円仁の孫弟子釈円教が創建。1107(嘉承2)年、藤原清衡が阿弥陀堂に。御本尊は大日如来。
『吾妻鏡』によれば、二階大堂(大長寿院と号す)の高さは五丈(約15メートル)、本尊は三丈(約9メートル)の金色の阿弥陀像、脇には丈六(約4.8メートル)の阿弥陀像九体が安置されていたと記してある。しかし、1337(建武4)年の火災で焼失してしまい、現在の本堂は1863(文久3)年の再建。
石段を登って門をくぐると、だれも居ない境内。門を支える木に積石がたくさん並べられていた。積石は『神を祀る』ことと、『死者の追悼(鎮魂)』等の意味がある。古に、洞窟に死体を納めてその入口を石で塞いだのが起源とも。
白山神社神楽殿
「野外能楽殿」と大きく書かれた掲示の横の赤い鳥居をくぐっていくと、白山神社能楽殿と本殿がある。能楽殿はまずは横から見ることになるが整然として美しい。老松の描かれた鏡板は古色で落ち着いている(外に晒されている形なので、風雨にどのくらい耐えられるのか少し心配)。訪れたのが6月であったので本殿には茅の輪が設置されていた。
白山神社は中尊寺の鎮守社だった神社であるが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は中尊寺とは分離し村社に列している。
白山神社御祭神は、伊邪那岐尊・伊邪那美尊。
仁明天皇の代である嘉祥2年、慈覚大師が一関磐井川の上流(現在の一関市本寺)に加賀の一の宮(現在の石川県の白山本宮)より分霊されてあったのを850年(嘉祥3)年この関山に勧請された。
御本尊は慈覚大師自らが彫った十一面観音。共に橋爪季衡の持仏・運慶作の正観音と源義経の持仏・毘沙門天が安置されたが、1849年(嘉永2年)の火災で焼失している。
能舞は1591(天正19)年、時の関白豊臣秀次と伊達政宗両公が社参の折に観覧。
1876(明治9)年には明治天皇が御東巡の折に古式(田楽、開口、祝詞、若女、老女)能舞(竹生島)を天覧されている。
建物構造は舞台及び楽屋は木造平屋建て、茅葺、入母屋、妻入、桁行14.9m、梁間5.9m、外壁は真壁造り板張り、正面3方が柱のみの吹き放し。
橋掛は両下造、鉄板葺き、桁行9.8m、梁間5m。
鏡の間は木造平屋建て、西側入母屋、東側寄棟、茅葺、平入、桁行3間、張間2間。
白山神社神楽殿(舞台・楽屋・橋掛・鏡の間)は欄干で囲まれた本舞台や鏡の間を繋ぐ橋掛かり、鏡板に描かれた「老松(※)」など見所の多い建物。江戸時代末期の本格的能舞台の遺構として、2003(平成15)年国の重要文化財に指定されている。
※……松は一年中緑の枝が茂り、生命力があり神が松の木に降りてくる、宿る木(依り代)であると古代より言われてきた。神社で能が演じられるときは境内の松に向かって演じられていた。能舞台では松は板に描かれているが、舞台の前に立っている松が鏡に写っている設定なので(松は客席側にあり、演者はその松に向かって踊りを奉納していることになる)、木材で造った板ではあるが、鏡板と呼称されている。
中尊寺と松尾芭蕉
平泉は平安時代末期、藤原清衡・基衡・秀衡の親子三代のときに栄え、源義経をかくまったことから滅んだとされている。
江戸時代の俳人である「奥の細道」を著した松尾芭蕉(曾良も同行)は、奥州藤原氏が滅亡してから500年目にあたる1689(元禄2)年……(芭蕉が尊敬する西行が没して500年目にもあたる年)に江戸を出発して、東北から北陸地方を巡り紀行文や俳句を書き留めて同年5月に平泉を訪れている。
高館(たかだち)の丘陵に登った後、中尊寺を参拝し「五月雨の降り残してや光堂」という句を残している。芭蕉が平泉を訪れた時期は5月13日と考えられていて、ちょうど五月雨の時期。ただし芭蕉の見た金色堂は現在の堂ではない。
金色堂は1962~1968年にかけて行われた昭和の大修理によって蘇った姿であり、覆い堂は1965年に建てられたもの。芭蕉の見た金色堂は今よりも朽ち果てて、覆い堂は鎌倉時代からのもので更に年代の寂れ感はあったと想像される。しかし、見た目の金色堂を「光堂」とも称するのは建物が金色に輝くからではなく、同堂は仏堂建築で、祀られた阿弥陀仏は無量光仏、すなわち「光仏」とも呼ばれ、「光堂」とは固有名詞ではなく、「光仏」の別名との意味もある。
金色堂のその鈍い(多分)光の所だけ五月雨がかからず、藤原氏の栄華を懐かしむように光り輝いている……という意味なのだろうか。あるいは繁栄も永遠には続かないという意味なのだろうか。慈悲による戦のない世を願ったのだろうか。
平泉にはもうひとつ芭蕉の有名な句がある。
「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」
平泉は平安時代に奥州藤原氏が繁栄を築いた地。義経は兄の源頼朝に追われ藤原秀衡のもとに身を寄せるが、秀衡の死後、当主の泰衡に攻められて果てる。居城を構えていた平泉の高館(たかだち)が義経最期の場所となった。見わたせば今はただ夏草が青々と生い茂る風景があるのみ。繁栄栄華を誇った奥州藤原氏の痕跡や当地で討ち死にした義経や弁慶や兵どもの影も形も無く、ただ夏草が茂るだけ……。「夢の跡」は全てが過ぎ去ってしまい、今はもう何もない、と世の儚さを詠んだと言われている。
芭蕉は中国の詩人である杜甫(とほ)を尊敬して、人間的に大きな影響を受けていた。「夏草や兵(つはもの)ども夢の跡」 には前書きがあって杜甫の「春望」の一節を記されている。「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。……意味は、国が滅びても山河は昔の通りだ、城跡にも春になると青草が生い茂っている」
中尊寺の森の中にある芭蕉の立ち姿は、杖を両手を重ねて静かな面立ちだった。
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中