JAPAN GEOGRAPHIC

香川県丸亀市 本島

Honjima,Marugame city,Kagawa

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Jan.21,2016 瀧山幸伸 

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丸亀港から本島へ

                           

コミュニティバスで時計回りに笠島まで

                                  

笠島

Kasajima

                                                                                                                                                                                          

年寄吉田彦右衛門の墓 「国指定史跡」

                      

                            

                 

塩飽勤番所

Shiwaku Kinbansho

                                                                                                                                

年寄宮本家の墓 「国指定史跡」

        

年寄入江四郎左衛門の墓

                                    


October 18, 2015 野崎順次 source movie

香川県丸亀市本島町

塩飽本島(しわくほんじま)

(Shiwaku-Honjima Island, Marugame City, Kagawa Pref.)

児島観光港から本島港へ

                             

パンフレットと現地説明板

     

本島町泊

本島港近くのお墓

     

本島町泊

国史跡 塩飽勤番所

塩飽勤番所跡は、本島港から徒歩10分の所にあり、表に堀を巡らせ、敷地(1,497m²)の三方を約42mの土塀で囲み、南に向いた正面を片側番屋の長屋門としている。敷地内には、入母屋造り・本瓦葺き(むくり型)の主屋と、朱印庫、番人部屋などの付属建物がある。主屋は、塩飽の歴史資料館として公開。信長、秀吉、家康からの朱印状や、徳川家親藩の高松藩と塩飽領の魚場争いの際に大岡越前守忠相らが署名した漁場の裁許書(縦1.82m、横2.21m)、咸臨丸に乗船した塩飽水夫たちが米国から持ち帰った品々などを展示している。

(丸亀市ウェブサイトより)

パンフレットと現地説明板

     

長屋門

         

本館外部

      

本館内部と展示

                                                    

本島町甲生

東光寺

       

本島町甲生

史跡 徳玉神社

       

本島町笠島

のどかな佇まい

   

笠島(かさしま)の埋め墓

埋め墓(遺体を埋葬する墓地)と詣り墓(石塔を建てる)を別に設ける両墓制で、ここは埋め墓である。埋葬地点に木の墓標、土饅頭、自然石などを設ける。

        

本島町笠島

善根湯x版築プロジェクト、2013年瀬戸内国際芸術祭出展作品

          

本島町笠島

塩飽本島町笠島重要伝統的建造物群保存地区

海と丘陵に囲まれた集落には、狭い道路が網の目のように走っている。あるものは湾曲し、またあるものは丁字型や十字型に交差し、道路幅も違って、見通しが効きにくい構成になっている。このうち、集落の東寄りを南北に走る道を東小路、これに直角に海岸とほぼ平行して弓なりに伸びる道をマッチョ通りと呼んでいる。通りに面して、格子構えに虫籠窓を設けたツシ2階建の町屋形式の住宅が並び、落ち着いたたたずまいの中に、中世の城下町の面影をとどめている。

(中略)

建物は江戸時代のものが13棟、明治時代のものが20棟ほど残っているが、大正・昭和初期のものも伝統的な構造と意匠をよく受け継いでいる。これらの建物で構成する建造物群は、周囲の自然環境の豊かさともあいまって価値が高い。

(丸亀市ウェブサイトより)

パンフレットと現地説明板

    

海岸沿いに東から西へ

         

マッチョ通りを西から東へ

           

吉田邸

    

マッチョ通りを更に東へ

             

笠島まち並保存センター(真木邸・さなぎてい)

                               

ふれあいの館(旧真木邸・きゅうまきてい)

                

東小路を南へ

              

文書館(藤井邸)

           

海の方へ戻る。

              

笠島から本島港方面(南)に戻り、さらに西海岸に向かった。

本島町生ノ浜

ゆるぎ岩観音

      

本島町生ノ浜

市文 夫婦倉

木造本瓦葺の土蔵で、二連式になっているため夫婦倉と呼ばれている。薪廻船業であった「新屋」の土蔵で、棟札によれば嘉永5年(1852)、生ノ浜の棟梁・物部喜代七によって、生ノ浜の海岸近くに建てられた。新家は、江戸時代に北前廻船業をしていたが、後に九州や徳島から大坂への薪運送を手掛けていた。

二連式の土蔵形態は珍しく、外側の壁は漆喰塗り、腰の部分はナマコ壁で、内部は別棟2階建ての構造になっている。

(丸亀市ウェブサイトより)

          

本島町尻浜

「機関車先生(2005年公開映画)」ロケ地、葉名島町立水見色小学校

1950年本島小学校尻浜分教場校舎として新築、1975年以降は統合のためあまり使われなくなった。

                                   

ロケ校舎二棟以外は完全な廃墟である。

      

西海岸から南海岸の展望

         

本島町泊

塩飽家住宅

       

本島町泊

木烏(こがらす)神社

遠く神代の昔、讃岐の国造であった日本武尊が、この付近を荒らしていた悪魚を退治されたとき一羽の烏が水先案内をつとめたという伝承の烏は、本島の玄関口、泊港の近くに木烏神社として祀られています。

  

市文 石鳥居

泊の海岸にある木烏神社の正面に、海に向かって立っている。笠木と柱に特徴があり、普通の鳥居の笠木は両端を斜めに断ち切ったようになっているが、この鳥居の笠木の両端は丸く盛り上がっている。

柱の刻字を見ると、この鳥居は、寛永4年(1627)に塩飽島の年寄宮本伝太夫道意の子半右衛門正信が建てたもので、薩摩の石工によって製作されている。当時、塩飽が繁栄し、薩摩との間にも密接な交渉があったことがうかがえる。

(丸亀市ウェブサイトより)

      

木烏神社拝殿、本殿、境内社など

           

市文 千歳座

木烏神社の左奥には「千歳座」と呼ばれる芝居小屋があります。文久二年(1862)に建てられたもので、全国で特に重要な舞台30件の中のひとつです。

間口17.6m、奥行8.4mの瓦葺き入母屋造りで、総建坪は129平方メートル、舞台の中央には、直径約8mの回り舞台や奈落が、天井にはぶどうだなまであしらった、遜色のない立派な芝居小屋です。

平成元年の修復工事の柿落(こけらおとし)興行には、東京歌舞伎の名優、中村富十郎、沢村藤十郎らが舞台を踏んでいます。

(丸亀市ウェブサイトより)

        

市文 制札場

木烏神社の境内にあり、江戸時代に塩飽を統治していた勤番所からの触れ書、法度、掟書などを掲示し、一般に周知した場所である。正面は開放し、下半分に角格子があり、奥の壁に掲示していた。塩飽の島々にはかつて24の制札所があり、この種の大型のものは泊と笠島に各3ヶ所あった。

(丸亀市ウェブサイトより)

   

本島港あたり

                    

児島観光港へ戻る。

         


November 3, 2013 野崎順次 source movie

香川県丸亀市

瀬戸内国際芸術祭2013

本島

(Honjima Island, Marugame City, Kagawa Pref.)

昭和9年、国立公園として第1次指定を受けた瀬戸内海国立公園の中にあって、備讃海域に点在する塩飽諸島の中心島。秀吉以来、自治権を安堵(あんど)されていた人名(にんみょう)制度の中心島で、人名から選出された4人の年寄によって政治が行われ、江戸時代は天領として明治維新まで人名の自治が続いた。年寄衆が政務を執った塩飽勤番所(しわくきんばんしょ)をはじめ、歴史・文化財の宝庫としても有名で、笠島地区では町並み保存を進めている。

(丸亀市ウェブサイトより)

高見島から本島に着くと雨が降ってきた。バスで新在家に行く。浜に出ると瀬戸大橋が雨に霞んでいる。

  

111 齋藤正 x 続・塩飽大工衆「善根湯 x 版築プロジェクト」

              

すぐ隣に墓地があった。砂地で小さな自然石の墓石が多く異様である。

       

本島港の方へ歩いて戻る。途中に塩飽勤番所(国史跡)があるが、今回は通り過ぎた。

           

惣光寺の方へ

     

力五山「つなぐ」

                       

港に戻る。咸臨丸渡米150周年記念顕彰碑

    

150 石井章 Vertrek「出航」

       

岩田草平 x プロマイノリティ「New Port – 青い香辛料」

            

何でしょう。

         

参考資料

瀬戸内国際芸術祭2013 ウェブサイト


June 2012 中山辰夫

丸亀本島 塩飽本島(しわくほんじま)

丸亀市本島町

岡山県笠岡市真鍋島から三光汽船の快速船で向かう。約40分で到着する。曇天で景色は期待外れ。

 

途中、大小の島々が点在している。船内では案内が行われたがデッキまで届かず島の名称は不明である。

        

瀬戸大橋が見えてくると塩飽本島は近い。

    

塩飽の語源は製塩を意味する「塩焼く」から転じたとも、潮が渦巻き流れる「潮沸く」に由来するとも言う。

本島の位置案内

   

笠置港

   

丸亀市本島町は、瀬戸大橋の橋脚台の島与島の西の島である。(周囲16km)

瀬戸内海の塩飽諸島は、備讃瀬戸の大小28の島々からなり海運の要衝で、塩づくり・漁労・廻船を生業

としてきた海人の後裔者たちが、南北朝以降、特に中世末期、塩飽水軍として活躍した。

その後、高度な海運技術と引換えに織田信長、秀吉、家康から海上の特権を与えられ、他に例のない島民

独自の自治権で行った統治が幕末まで続いた。

本島には今も、年貢米輸送を主とする廻船で潤った時代の名残が島中に残り、品のいい落着いた町並の佇

まいで魅了する。さらに、瀬戸大橋を水平に眺められる風景も共存しており素晴しい所である。。

港からゆっくり歩いて約15分、焼板壁が続く町家を眺めながら歩く。

        

笠島伝統的建造物群保存地区

昭和60年(1985)に選定され整備された。古き良きものを活かした町並みは島中とは思えない。

伝統的建造物69棟。どの家も修復され殆ど完全な形となっている。しかし、半数近くが空き家である。

今後も古き良きものを活かした町づくりが継続されることを願うのみである。

   

マッチョ通りと道路の特徴

     

東山に沿って南北に走る「東小路」、弓なりに湾曲する「マッチョ通り」「田中通り」などが主な通り。

S字型やL字型に曲げたり、T字型に交差させたり、道幅を変えて見通しが利かない工夫などが施されている。

 

笠島まち並保存センター「真木邸 さなぎてい」「細部は別掲」

江戸時代の建築で、祖先に年寄りを務めたこともある家柄。

なまこ壁をあしらった外観やカマドのある土間や二階造りなど町家形式を残した建物である。

     

ふれあいの館 「旧真木邸(きゅうまきてい)」

真木家と向かい合っている。廻船問屋だった江戸時代の建物で、典型的な田の字の四間取りを前後で食い合わせ

前栽をつくるという工夫が取られている。

   

藤井邸

数少ない妻入りの建物で、江戸時代の建築。

現在は修復され、昔の塩飽関係文書や絵図などを展示する文書館として公開されている。

  

町並は続く。裕福な町中に感じられる。

         

町中の特徴

虫籠窓で形は様々である。矢来(やらい)石垣の組み方。高度な技術を要す。石の表面のノミ跡模様がきれい。

   

持ち送り 下屋根を支えるもの。大工の腕を競うように請ったものもある。

むくり 屋根瓦の葺き方の一種で、寺などとは反対に内側に湾曲しており、当時の流行とも言われる。

  

鏝絵

  

専称寺

笠鳥の背後にある光厳寺山中腹に建つ。法然上人と関わりがある寺で、上人ゆかりと伝える什物が残る。

    

塩飽勤番所 「細部は別掲」

国指定史跡

 

寛政10年(1798)に塩飽全島を治める政所として建造された。ここは織豊時代から水軍などの功労で

島の自治を許された人名650人から選ばれた4人の年寄りが交代で政務を執った所である。

    

現在は塩飽水軍の資料館として、信長・秀吉・家康から与えられた朱印状や海路図をはじめ

数多くの貴重な資料を保存・展示する。政務の間、表座敷、控えの間などがある。

徳川家康の朱印状

 

年寄りの墓 宮本家 「国指定史跡」

島内の3箇所にある墓は国の史跡に指定され、3mを超える墓石が権勢の大きさを物語る。

    

年寄入江四郎左衛門、吉田彦右衛門の墓 「国指定史跡」

吉田家の墓は寛永4年(1627)建立。吉田家は代々彦右衛門と称し、宮本家と並び寛政の頃まで年寄を続けた。

    

夫婦倉 往時の塩飽廻船の繁栄ぶりを物語貴重な歴史遺産。訪問できず引用(丸亀市文化財)

市指定文化財

  

木造本下藁葺の土蔵。二連式より夫婦倉と呼ばれる。薪廻船業だった「新屋」の土蔵で、嘉永5年(1852)

生ノ浜の棟頭によって建てられた。二連式の土蔵形態は珍しく、壁は漆喰塗り、腰部はナマコ壁である。

木烏神社(こがらす)

本島町泊670

本島の玄関口、泊港の近くに建つ。泊地区一帯の産土神 祭神:大国主命

讃岐の国造であった日本武尊が、この付近を荒らしていた悪魚を退治されたとき一羽の烏が濃霧の中

水先案内をつとめたという。その烏を祭ったので木烏という名がついたという伝承が残る。

    

鳥居

丸亀市指定文化財

海に向かって建つ。高さ4.5m 柱の開きが広く、基部で4.55mある。

笠木・貫・柱の太い石組からなり安定感がある。

笠木には反りがあり、柱に転びがあって神明鳥居の様式に属するが、柱と貫の間のくさびがない。

 

笠木と柱に特徴がある。この鳥居の笠木の両端は丸く盛り上がっている。

   

柱は方柱の角を丸く面取り、縦横の比が51cmに対し、斜めの径は56cmとなっている。

基礎部は1m強埋め込みが行われ、基礎固めがされている。

   

この鳥居は、寛永4年(1627)に塩飽島の年寄宮本伝太夫道意(でんだゆうどうい)の子半右衛門正信が

建てたもので、薩摩の石工によって製作されている。

当時、塩飽が繁栄し、薩摩との間にも密接な繋がりがあったことが窺える。

制札場

木烏神社の境内にあり、江戸時代に塩飽を統治していた勤番所からの触れ書、法度、掟書などを掲示し

一般に周知した場所である。正面は開放し、下半分に角格子があり、奥の壁に掲示していた。

塩飽の島々にはかつて24の制札所があり、この種の大型のものは泊と笠島に各3ヶ所あった。

   

千歳座

本島町泊670

丸亀市指定文化財

木烏神社境内の奥、本殿横に千歳座がある。文久2年(1862)に建てられた入母屋造、本瓦葺の芝居常小屋で

全国で特に重要な舞台30件の中の一つ。間口17.4m、奥行8.3mで東面し、総面積は129㎡である。

  

梁組

芝居小屋特有の大臣柱(脇柱)が上手下手に、天井にはやぶどう棚が完備している。

ぶどう棚は丸竹を格子状に組んでいる。

    

中央に直径7.9mの皿回し式の回り舞台がある。コロが使われ、回り易い

   

正面上部が板戸、下部が「ぶちょう」になっており、「ぶちょう」を前に倒すと10.9mの突き出し舞台になる。

興行の時、神社の境内が観覧席となる。

   

平成元年の修復工事のこけら落とし興行には、東京歌舞伎の名優、中村富十郎・澤村藤十郎らが舞台を踏んだ。

 

本島港から岡山・児島観光港に向かう。細部は別掲

船で約30分 瀬戸大橋と併走する景観、夕日を重ねながら・・を期待してきたが、残念ながら夕日もダメ。

曇天での撮影で不満足に終わった。

      

細部案内

笠島まち並保存センター(真木邸 さなぎてい)

重点伝統的建造物群保存地区の中心的な存在・役割を果たす建物。

屋号を戸屋という廻船問屋。

塩飽諸島を統治する年寄りを務めた家柄であった真木家の邸宅。江戸期の建物。ナマコ壁をあしらった土蔵が

目立つ。低い土塀と相まって落着いた佇まいである。

        

主屋は片入母屋造、本瓦葺、中二階、黒壁の一列ナマコ壁で格子窓、平入り、室内の天井は低い。

        

町家建物の特徴と詳細図

立ち並ぶ町なみは何故か安堵感を与えてくれる。

江戸末期から大正期にかけて造られた出格子や虫籠窓を設けた町家が並ぶ。その多くは伝統的な構造と意匠が

受継がれ保存もいい。そこには船大工の技術も活きている。

瀬戸内海特有の明るい落着いた雰囲気の町並を形成している所以か。

  

保存地区には伝統的建造物69棟があり、江戸後期の建物が13棟、明治時代のものが20棟ほど残っている。

塩飽勤番所

国指定史跡

寛政10年(1798)の建築。1250石の自治を許された650人の船形衆から選ばれた年寄りたちが交代で

政務を執った海の政所である。咸臨丸の航海日誌などの展示もある。

    

現在の建物は、昭和52年(1977)に全面改修を行い昔の姿に復元したもの。

      

朱印状

丸亀市指定文化財

信長・秀吉から与えられ、家康からは、関ケ原の軍における塩飽水軍の功績に対して与えられた。計7通ある。

秀吉が朱印状で、船方衆650人による支配を認めた。これが全国に例のない「人名制」の起源である。

    

塩飽船方衆が最後に名をあげたのは、日本人の手で初めて太平洋を横断した咸臨丸の快挙だ。

この時乗船した水夫50人のうち、実に35人が塩飽出身の水夫であった。

咸臨丸乗務員の遺品も展示されている。

    

塩飽は幕府の直接支配にあったので、伝統的に塩飽は幕府に熟練した水夫を提供してきた。幕末の様式船に徴用

されたのもその延長戦上のことだった。

先に訪れた真鍋島「岡山県・笠岡市」と同様、住民の老齢化と若い人の島離れからくる

空き家増加の現象が起こっている。

が、非常に明るい、余裕が感じられる、落ち着きのある町並みと感じた。散策中は瀬戸内の島の中にいることを

忘れていた。

≪参考≫

塩飽諸島からは弥生時代以降の師楽式土器(製塩土器)が多数出土している。平安末期には摂関家領の塩飽荘から

二石の塩年貢が納められている。いわゆる「塩荘園」として発展した島といえる。

同じ平安末期頃、「真鍋(岡山県真鍋島)よりしわく(塩飽)へ通ふ商人はつみをかいにて渡る成りけり」と西行

法師が「山行集」で詠じているが、塩などを中心とする商品流通の盛んな海域でもあった。

この一帯は、古代・中世から屈指の塩生産地帯であり、塩づくり、漁労、廻船を生業としてきた海人の後裔者たち

が南北朝期以降、特に中世末期、塩飽海賊衆(水軍)として活躍した。

瀬戸内には、名だたる2つの水軍があった。

愛媛の村上水軍と香川の塩飽水軍。村上水軍が勇猛な戦闘水軍で知られるのに比して、塩飽水軍はその操船技術

造船技術で名をはせ、後に廻船業で多くの船方衆が富を築くことになる。

塩飽諸島は、周囲16キロの本島を中心にした備讃瀬戸の大小28の島々の総称だ。

塩飽の海の男たちの勇躍は鎌倉・室町時代にさかのぼるが、塩飽水軍の名が世に出るのは、織田・豊臣時代。

他の水夫たちが航海をあきらめるほどの荒らぶる海を乗りきる見事な操船技術と豪胆さ。

秀吉の島津攻め、北条攻め、朝鮮出兵の海上輸送の功労として、これらに携わった650人に対し、塩飽の島に

1250石の領地が与えられ、大名に対して「人名(にんみょう)」と称した。

以降、塩飽諸島は650人の船方衆の共有財産として、その中から選ばれた4人の「年寄(としより)」たちに

よって交代で政治が行われた。

人名制

塩飽諸島で生まれた人名というのは「塩飽の船方衆は、大名にあらず、小名にあらず、人名なり」といわれたように

大名、小名に対応する言葉である。合戦に功績のあった武将が一万石以上の領主に取り立てられたのが大名であるが

塩飽がそれらと違う点は、所領を与えられたのが特定の武将でなく、島中の650人の船方衆であったという点である。

はじめ天正18年(1590)に秀吉から、田方屋敷方220石、山畠方1030石、合計1250石の領地が与えられ

その権利は家康にも承認された。この所領支配の権利は、人名株として650人に分け与えられ、代々子孫に受継がれ、

この人名領では、大名の支配を受けず、島内の住人の中から選ばれた年寄—年番—各浦庄屋の組織によって自治的な

統治が行われた。

こうした特権のその代償として、塩飽の卓越した水運力に着目し、それを御用船方として組織され、組み込まれた。

瀬戸大橋

倉敷市児島から香川県の坂出市までを結ぶ本州四国連絡橋の一つで、昭和63年(1988)4月に約10年の歳月を掛け

開通。

塩飽諸島の5つの島(櫃石島・岩黒島・羽佐島・与島・三つ子島9の間に架かる6つの橋梁の総称で、それらを結ぶ

高架橋により構成され海上9.4kmの橋げたは道路・鉄道併用橋として世界第二の規模を誇る。

ルートは道路37.3km、鉄道32.4km、海峡部9.4kmで、橋梁は吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類を併設。

橋の上からは瀬戸内海公立公園の島々の美しい景観が楽しめる。

船上よりの景色

                 

参考資料≪丸亀市パンフレット、丸亀の文化財、他≫


Feb.2007 瀧山幸伸 source movie

 

        

Tomari

     

塩飽勤番所

Shiwaku Kinbansho

    

    

    

     

 

  

笠島地区

Kasajima

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今どき、丸亀からの船はきわめて不便だった。笠島の時間は止まっている。村を歩いていても人影を見ることは稀だ。だが、ここには特別な魅力がある。

塩飽水軍の名轟く28の島から成る塩飽の民は、源平の戦いに遡る操船技術を持っており、信長、秀吉、家康からも朱印状で庇護され、塩飽勤番所による自治が許されていた。西回り航路における水夫として、また、船大工として、江戸時代の海運の基礎技術を構成していた、その本拠地が笠島であった。幕末、咸臨丸の水夫は、50名中35名を塩飽の島民が占めていたが、明治以降、特権を失い、船大工の技術者も地域を離れることとなり、戦後は全くの過疎の島となってしまった。それゆえに、笠島の集落は江戸時代から続く町割と大正までの建築を今に伝え、1985年(昭和60)国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されることとなった。

緩やかな谷筋に沿った集落は百棟あまり。多くは本瓦葺のツシ二階で、虫籠窓や格子、なまこ壁や鏝(こて)絵が美しい。一部には土壁、土塀の家も残る。石垣も石畳も側溝も、建物とよく調和する。興ざめな看板も幟もない。

映画やドラマにぴったりの風情を持った街並だ。

 

   

  

  

         

   

  

  

  

 

  

  

  

  

    

 

            

   

  

専称寺

 

年寄吉田彦右衛門の墓

   

木烏神社 歌舞伎舞台

  

丸亀 本島 民宿はまべ

Marugame Honjima pension Hamabe

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 魚料理

   

     

 

ヒラメ刺身

  

メイタカレイから揚げ

 

イイダコ酢の物

 

イカバター焼き

 

タコからあげ

 

メバル煮付け

 

スズキ塩焼き

 

チヌ飯

    

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