香川県さぬき市 志度寺 86番札所
Shidoji 86ban fudasho,Sanuki City,Kagawa
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さぬき市志度1102 志度寺 本堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 寛文10(1670) 桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、軒唐破風付、本瓦葺 棟札2枚 19830602
さぬき市志度1102 志度寺 仁王門 重文 近世以前/寺院 江戸中期 寛文10(1670)頃 三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺 19830602
Mar.30, 2021 瀧山幸伸
Jan.22 ,2021 瀧山幸伸 source movie
December 16, 2018 野崎順次 source movie
香川県さぬき市志度1102
真言宗善通寺派
補陀洛山 志度寺
(Shidoji Temple, Sanuki City, Kagawa Pref.)
第八十六番札所
香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望めます。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。
室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。志度は、江戸時代の奇才平賀源内の故郷であり、近くに記念館があります。
(四国八十八ヶ所霊場会ウェブサイトより)
国重文 仁王門 江戸中期
今日は庭園をじっくり拝観に来たので、そちらに進む。
県名勝 築山庭園
本庭は、実は、昭和三十二年五月に、著者が初めて本寺を訪ねた時、室町初期の古庭園を発見し、しかも本庭は曲水式の池庭で、細川氏関係の作庭であることを究明した。
(中略)
当時の十河徹澄住職の多大の努力により、昭和三十六年十二月から、いよいよ著者の指導によって復元改修を行い、翌三十七年四月十八日に大体の工を完了したのであった。
本庭は、本寺書院の南庭で面積は一千八百坪を有し、広大な池庭である。書院の東部(聚蔵館の南)から池庭が曲線に広がり、この池庭に中島があり、南の石橋から東に池庭は南と西に曲線をもって延び、そこにもまた石橋がある。西に向かっての池庭はますます曲線的で、大石橋から西へ、もう一橋の石橋の下を西に延びている。全庭は一種の曲水式であって、曲水式の池庭としても特に古いものであり、荒廃しながらもよく保存されたものである。
この池庭では聚蔵館との間に入ると、そこに北畠式の螺旋紋をえがく石組を見せ、東の中島には蓬莱式の石組が多く、北東に須弥山式の巨石二石が立って、全庭の線が集っている。全庭到るところに、阿波産の青石を用いたのは、細川氏の関係によるものであり、全体的には、南北朝時代を中心とする石組手法を見せ、または北畠国士舘址庭園などを参考にして石組をし、書院前に枯山水で、玉取海女をテーマとして石庭を設けた。これには無染の庭と命名し観音経から用いた。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典」志度寺庭園より)
重森三玲の指導で復元されてから、55年後である。雑草の繁茂などで荒廃しているが、池の曲線的輪郭が何とかたどれるが、全体像は皆目分からない。
無染の庭(枯山水)。こちらはさすがによく手入れされている。
お辻の井戸、薬師堂、大師堂、閻魔堂(県文)
国重文 本堂 江戸中期
A camera
B camera
撮影:2011年8月
<本堂>
正面七間側面五間、組物出三斗、中備人字形蟇股、二軒繁垂木、入母屋造、本瓦葺
江戸時代[寛文10年(1670)]
<仁王門>
三間一戸八脚門、組物平三斗、中備蟇股、二軒繁垂木、妻二重虹梁蟇股、切妻造、本瓦葺
江戸時代[寛文10年(1670)]頃
Feb.2007 瀧山幸伸 source movie
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