鹿児島県鹿児島市 仙巌園
Senganen,Kagoshima city,Kagoshima
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May 11, 2018 瀧山幸伸
御殿内
庭園内
May 9,2018 田中康平
鹿児島県 鹿児島市 仙厳園
Senganen ,Kagoshima city,Kagoshima pref.
鹿児島県鹿児島市吉野町
世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」構成資産(旧集成館)
仙厳園:国指定名勝 指定年月日: 1958.05.15(昭和33.05.15)
旧集成:国指定史跡 指定年月日: 1959.02.25(昭和34.02.25)
島津家別邸であった磯庭園及びその西隣の幕末期、反射炉や機械工場などを建設され集成館と呼ばれ産業近代化の先駆けとなった地域全体を現在では仙厳園と呼称される。
桜島を眺める景観に優れ歴史的にも貴重である。
国指定文化財等データベース解説文(仙巖園): 仙巖園は欝蒼たる暖地性樹林におおわれた磯山を北に背負い、その急崖の下の扇状地を整理して築造されたものである。南正面に錦江湾を隔てて桜島の全容を借景とする。建物の前面を広くとり、海浜に向って二段の地割とし、要所に石組、石灯篭等を置く。万治2年島津光久の別館としてはじめられ、明治初年までの間に局部的な補修が行われたが、雄大開豁な規模と地割とはよく保存され特異の意匠をもつ大名庭として著名である。 花倉御仮屋は仙巖園の東約500メートルにあり、天保初年に島津家離舘として営まれ、いくばくもなくして廃せられたものであるが、その庭園の滝、溪流の護岸、石槁等巨石を用いた豪宕な石組はいちじるしい改変を受けずに残され、江戸時代末期のものとしては特に優れた景観を伝えている。
国指定文化財等データベース解説文(集成館):集成館は島津斎彬の創設命名にかかる施設で、軍備充実及び殖産興業のため営んだ、いわば綜合的な工場集団とも称すべきもので、その技術は洋式に則った。
即ち嘉永5年冬磯邸内に反射炉を設置したのに始まり、ついで熔鉱炉及び鑚開台を設け、更に硝子、陶磁器、農具、刀剣、氷白糖、地雷、水雷等の製造工場を起した。また、ガス及び電気の試験も行っている。斎彬の死後消長はあったが、造兵事業を主とすることになり、硝子工場を併せ行った。文久3年7月薩英戦争のため反射炉を除き焼失、戦後は各砲台の大小砲、砲彈の製造に從い、遂に反射炉は取壊され、鑚開台も破損した。ついで機械製造工場を作ることになり、元治元年10月工場の建築に着手し、慶応元年4月、轆轤台、鉋台、捻製作、道具等の据付を終った。またついで英国よりも機械を購入したといわれる。
集成館の敷地は磯邸の西に隣り、背後に山を負い、前面は海に面する。現存の遺構は旧機械製造工場1棟と反射炉跡である。前者は敷地の西部に、後者は東部にある。
機械製造工場は寄棟造の石造平家建で正面約42間、奥行約7間、極めて細長い建物である。内部は広濶な部分及びこれと間仕切をもって境した部分の2室から成っている。
反射炉は低い壇上にある。嘉永5年建設の反射炉は煉瓦の土貭悪るく、改修して安政3年春1基竣功、ついて同4年夏更に1基を増設したが、現存のものはその後二者の一つであらう。約28尺に約25尺の広さを深さ約3尺乃至4尺堀り下げ、切石をもって構築された遺構が存するが、竈部煙突部はすべて失われている。その機能については詳でない点もあるが、2竈1基の基礎と灰孔部等と推定され、また三方に暗渠がめぐっている。
集成館の事業は明治2年9月に中止し、廃藩置県後は官有となり、大砲製造所と改称した。その後軍有を経て民間に払下げられ、消長はあったが機械製造工場として使用、大正4年6月に至って中止した。同12年6月尚古集成館と称せられ今日に至っている。
幕末においては、各藩はそれぞれ軍備の拡充と産業の振興につとめたが、薩藩は鋭意西洋の技術を導入し、その設備の充実せる、製造品目の豊富且つ独自なる、当時において極めてすぐれている点が多かった。いま盛時の遺構に乏しい憾があり、また改変のあともあるが、なお往時の景況を偲び得べく学術上価値ある遺跡である。
旧集成館反射炉跡。
仙厳園庭園(磯庭園)及び御殿
尚古集成館(旧機械製造工場)
鹿児島県鹿児島市吉野町9700−1
仙巌園
(Sengan-en Garden, Kagoshima City, Kagoshima Pref.)
撮影日: 2012年9月1日
国指定: 名勝文化財
正式名称:仙巌園 附 花倉御仮屋庭園(せんがんえんつけたりけくらおかりやていえん)
築庭年月: 万治元年(1658)
面積: 50,000㎡
仙巌園は、江戸時代初期に島津光久(19代当主)によって築庭され、中国龍虎山の仙巌にちなんで「仙巌園」と名付けられた。薩摩は我が国の「南の玄関口」に位置し、当地を治めてきた島津氏も、琉球王国を介して積極的に中国の文物を受容し、その文化の影響を受けた。仙巌園は、そのような環境の下で整備されたため、日本庭園でありながら、各所に中国の作庭趣法を取り入れており、独自の調和美をつくりだしている。四季折々の美しさに加え、桜島(築山/遠景)と錦江湾(池/中景)を借景に取り入れた雄大な風景が楽しめる大名庭園である。
パンフレット
入口あたり、反射炉跡と鉄製150ポンド砲
石垣と薩摩焼の窯跡、示現流展示室、正門
示現流展示室
仙巌園、シオカラトンボ
島津家の別邸として建てられた磯御殿がある。明治維新後、居城であった鶴丸城が島津氏の手を離れたため、城を出てここを本邸とした時期もあったそうで、当時の建物は、今の3倍の大きさがあったとか。庭園に面した部分は、当時の当主29代忠義が使用していた部屋で、寝室、居間、謁見の間など八部屋余りからなる。
仙巌園前苑続き
望嶽楼、千尋巌、高枡
「望嶽楼」は琉球国王から贈られたもので、薩摩藩主が琉球使節を応接するときに用いられたと伝えられる中国風の建物である。床は清朝初期の阿房宮の床瓦を、額は4世紀の中国東晋時代の文人王義之(おうぎし)の書を模したと言われている。邸宅裏山の岩壁には中国式庭園に多く見られる磨崖文字が彫られ「千尋巌」と刻まれている。
仙巌園後苑、曲水の庭、江南竹林
中国の御禊(みそぎ)儀礼を淵源とする「曲水の宴」を催した「曲水の庭」が築かれ、さらにその後ろに江戸時代中期に、中国から日本で輸入した孟宗竹を移植した場所「江南竹林」が広がってい。孟宗竹はこの仙巌園から日本各地に広まった。「曲水の庭」と「江南竹林」は浙江省紹興市蘭渚(らんしょ)にあった王義之の別邸「蘭亭」を強く意識して作庭されたものと言われている。
石橋、筆塚など
国登文 仙巌園内濾過池 明治40年(1907)
石造平屋建、建築面積21㎡、深さ2.4m
市街の北部,鹿児島湾を臨む名勝仙巌園の隣接地に所在する。地下約2.4mの位置に布設された水道石管から取水し,ろ過の後に敷地内各所に配水する。大型切石積の壁面から石造ヴォールト天井を架け,外観は和風を意識した切妻屋根に見せる。
その他
参考資料
仙巌園HP
May 2009 撮影/文:川村由幸
名称:仙巌園
所在地:鹿児島県鹿児島市吉野町9700
仙巌園は島津家19代満光久が別邸として建造したもの。
大きなお屋敷と庭からなっており、錦江湾の向こうには桜島を望むことができます。
2008年の篤姫ブームで一躍脚光を浴びることとなりました。
Dec.2005 撮影:瀧山幸伸 source movie
御殿
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