高知県四万十町 各地
Shimanto town, Kochi
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July 20,2014 瀧山幸伸 source movie
重要文化的景観 ■大正奥四万十区域 1 梼原川 2 中津川 3 久保谷風景林 4
木屋ヶ内橋 5 旧大正林道佐川橋 6 旧大正林道柿ノ木サコ橋 7 旧大正林道ユス谷川橋 8 旧大正林道西ノ川1号橋 9 ユス谷川橋
10 旧大正林道木屋ヶ内トンネル 11 旧竹内家住宅 12 国道439号線 13 町道大奈路下道線 14 町道下道下津井線 15
町道下津井線 16 町道大奈路中津川線 17 河内神社 18 中津川の茶堂 19 久木ノ森山風景林(2001年の森) 20
大正中津川集落(本村・森ヶ内) 21 町道久木ノ森線 22 サワタリ橋 23 町道成川線
本区域は、四万十川の第一支流である梼原川の下流域にあたる。梼原川のうち下津井から四万十川との合流点までの四万十町を流れる約28kmの区間と、その支流である中津川の全区間、及びそれらの河川から一番近い山の第一稜線までの区域と国有林を含む。
梼原川は、四万十川と同じく穿入蛇行を繰り返すが、四万十川に比べて川幅が非常に狭く、流れも急で、周囲の大半が山間地であるため、まとまった耕地が少なく、急峻な山地を切り開いた棚田や段々畑で耕作するとともに林業に生業を求めてきた地域である。梼原川流域の林業活動は田野々以奥で明治期から昭和期にかけて活発に行われたが、明治17年四国には営林局の前身である愛媛・高知の大林区署の田野々派出所が新設され、北幡地方における近代林業の最初の拠点となった。それは幡多地方にあってこの大正奥四万十区域に最も国有林が集中していたことに加え、四万十川と梼原川が合流する地形であったため下田港への伐木の水運による大量搬出に適していたことによるものである。
こうして発展した地区のひとつに大正中津川地区がある。江戸時代には、土佐第一の産物は木材で、四万十町奥地の山林の大部分を藩の御留山としたが、大正中津川地区の住民も管理・伐採・搬出という重要な役割を担っていた。また、耕地の少ない山村地域では、林産物生産が生活を支える重要な生活基盤であったが、藩有林として厳重な管理下にあった山林資源を自由に利用することはできず、寛文4年に布告された「山林諸木竝竹定」をはじめとする規制によって私有林の伐採や焼畑等も制限された。
このように、森林資源を確保するために住民の生活をも厳しく規制していることが、藩にとって材木がいかに重要なものであったかを物語っており、その中で、住民は苦難に耐えながら森林を守り育ててきたのである。
厳しい生活を強いられた様子は、この集落にあった国指定重要文化財・旧竹内家住宅に見ることができる。
藩政時代から続けられた木材の伐採・搬出は明治以降になると、いっそう盛んに行われた。大正中津川地区には四万十川流域においてもっとも早く森林軌道が施設されて木材の大量搬出が可能となり、その後も大正から昭和期には営林署の事業所も置かれ積極的な国有林事業が展開された。四国森林管理局(高知営林局)が長期にわたって黒字経営を続けられたのも、この流域が豊かな森林資源に恵まれていたことと、それを住民が良好に維持管理してきたことによる。
こうした森林資源を維持管理し、利用してきた足跡は現在、森林軌道跡の道路や橋梁、日本最古の複層林の一つである「奥大道自然観察教育林」として残る。また地域の暮らしを支えてきた根源として、「久木ノ森山風景林」の天然林が残る。
大正奥四万十区域は、住民により維持され活用されてきた四万十川の水源である山林と、活発な国有林事業が展開されて戦後の復興や日本の高度成長を支えた国有林事業の痕跡を残し、今も地域では「四万十桧」を産出して積極的な林業が行われている。このような山村集落の様相は、四万十川流域の文化的景観を理解する上で、欠くことのできない景観地である。
■四万十川中流区域 24 四万十川 25 市ノ又渓谷風景林 26 奥大道自然観察教育林 27 古屋山林木遺伝資源保存林
28 梶ヶ谷林木遺伝資源保存林 29 向弘瀬橋 30 上宮橋 31 向山橋(上岡沈下橋) 32 里川橋 33
新谷橋(茅吹手沈下橋) 34 大正橋 35 北の川口橋 36 三島神社 37 仙花紙(泉貨紙)製作所 38 国道381号線
39 県道大方大正線 40 県道秋丸佐賀線 41 県道昭和中村線 42 町道大井川西土佐線 43 町道久保川小野線 44
町道四手崎線 45 町道昭和戸口線 46 道轟藤の上線 47 轟集落 48 三島の水田 49 町道三島線 50 第一三島橋
51 第二三島橋 52 小野集落 53 小野の水田 54 曽我神社 55 八坂神社 56 願成寺
本区域は四万十川の中流域にあたる。四万十川本流のうち弘瀬から川平までの約49kmの区間、及びその河川から一番近い山の第一稜線までの区域を含む。
四万十町内を流れる四万十川は、比較的開放感のある高南台地を穏やかに流れるが、本区域では、山地の間を大きくS字を連ねたように穿入蛇行を顕著に繰り返しながら流れる。四万十川の蛇行部内側の丘陵地や支流との合流点等に棚田状に開墾した農地とともに小集落が点在している。
四万十川流域では林業の繁栄とともにその流れを利用した河川流通が発達したが、本区域は豊富な水量であったため、河川沿いの集落は四万十川の流通・往来を支える重要な役割を担ってきた。
この集落のなかに、三島地区と小野地区がある。
三島地区には四万十川最大の中州である三島がある。明治23年の洪水まで、この三島には三島神社が祀られていた。水運が活発に行われていた藩政期から昭和初期にかけては、水運の安全を守る神として流域の篤い信仰を集めていた。現在では昭和地区の旧役場横のシロトコに遷座されている。
現在、三島はその左岸側に立地する轟集落の住民によって農地が耕作されている。夏場の水稲、冬場のナバナの栽培によって季節ごとに彩られる景観は、その生活を支える存在であると共に、四万十川を通行する人々の心に感銘を与える、価値のある存在である。
一方、小野地区は、四万十川の河岸段丘上に中流域では稀な規模の耕地を有し、その小高い丘上に民家や社寺が展開した、農業を生業とする集落である。
この農地は、第二次大戦前後に行われた灌漑工事によるもので、それまでは丘上の地形で水利が悪く水田が少ないため、農業を主体としながらも副業に生業を行わなければならなかった。その生業が筏師と紙漉きであった。
明治から昭和初期にかけて四万十川奥地から伐採された木材は軌道や木馬、人力で梼原川や北の川、久保川などの支流へ運ばれ、そこから四万十川本流へと堰出しや管流しで流送され、筏に組まれて下流の下田へ運ばれた。小野地区対岸の久保川口はこれらの木材の集積地であり、そこから、小野では農業の傍ら筏師を生業とする人々が現れ、周辺を含めると最盛期には60人〜70人を数える筏師に成長した。
また、十川には四万十川流域の林産物を一手に扱う商人がおり、そこを拠点に四万十川の水運を使って下田港へ移出されたが、その中に楮を原料とした仙花紙と呼ばれる和紙があり、小野周辺では旧くから農閑期や四万十川の渇水期に晒の工程で四万十川を利用して仙花紙漉きが行われていた。
その後、仙花紙漉きは大量生産の紙に押されて途絶えていたが、旧くからの伝統技術が蘇り、小野や大井川で再開されており、和紙の世界でも始期が明確な和紙として知られている存在である。
四万十川流域から見た場合、本区域は四万十川を介して行われた河川流通の形成を支え、またその流通に生業として関わった人々が暮らした地域である。また河川が形成した中州である三島は、水運という生業が関わるなかで信仰対象となってきた場で、現在でも中州での耕作という独特の土地利用が行われており、これらは四万十川流域の文化的景観を理解する上で欠くことのできない景観地である。
■高南台地区域 57 四万十川 58 日野地川 59 森ヶ内風景林 60 佛ヶ森山国有林 61 水田(上壱斗俵・下壱斗俵)
62 法師ノ越水路トンネル 63 一斗俵沈下橋 64 市生原の石積み堤防 65 清水大橋 66 県道窪川船戸線 67 上壱斗俵集落
68 下壱斗俵集落
高南台地区域は、田園風景が広がり仁井田米に代表される県内有数の穀倉地帯で、四万十川のうち上秋丸から家地川を流れる約33kmの区間及びその河川から一番近い山の第一稜線までの区域と国有林を含む。
四万十川流域でも、上流に近いこの区域では下流域に比べて増水期の水量も少ない。そのことから、本流に築かれた堰や水路によって、その豊かな清流が広大な水田に導かれ農地を潤すという、重要な役割を果たしてきた。
新田開発にあたっての課題は灌漑用水の確保であり、従来の本田は谷川の水を利用することで事足りたが、新田を開くには谷川の水だけでは不足し、四万十川の本流に堰を築いて水位を上げ、新しく水路を開削する必要があり、開墾の歴史は、灌漑の歴史でもある。
明治期に構築された水路に法師ノ越水路トンネルがあり、これは、灌漑における住民の苦難を物語るものである。明治23年の大洪水で、壱斗俵と市生原の両集落に通じる灌漑用水路が崩壊し、修復したが度重なる洪水で壊れてしまった。そこで、市生原の野村成満は、この自然の猛威を回避するには、法師ノ越山に水路トンネルを抜く以外に方法はないと考え、農民から資金を集め工事を始めたが足りず、自分の田畑を売却して資金に当て完成させている。
壱斗俵地区にある松葉川水力発電所は、旧大野見村竹原の四万十川から取水しているが、これも、今でこそ発電用であるが元々は灌漑用としてつくられたもので、旧窪川町との境に位置する旧大野見村野老野の原野を開発するために、水路をつけようとしたのが始まりで、水路工事を始めたが資金難に陥り、その用途に水力発電の用途を加え、電力会社と灌漑用水の余水利用の契約を結び、水路の開発が続行され、水が確保されて原野を水田に変えることが実現している。
また、四万十川は頻繁に洪水を引き起こす川でもあり、市生原や越行など河岸には石積みの堤防、護岸のための竹林が見られ、先人たちの水田を守るための備えを読みとることもできる。
また、四万十川右岸には高岡神社の神宮寺で五社(高岡神社)別当職の岩本寺があったが、明治に入り、四国霊場第37番札所が仕出原の五社(高岡神社)中ノ宮から岩本寺に移った。現在の窪川市街地は、藩政期に城下町としてその基盤が形成された後、第37番札所岩本寺の門前町として発展し、現在でもその景観をよくとどめている。四万十川中流の農山村地域にあっては特異な「商業都市」である。
このように、高南台地区域では、四万十川本流の水資源を利用した開拓と灌漑により広大な水田が開かれており、現在でも堰や堤防、水路といった構成要素がよく残されている。さらにこの農地の存在による富の集積が、城下町としての成立、さらにその後の門前町としての窪川中心部の形成をささえてきた経緯が、その土地利用や構成要素によく残されており、四万十川流域の文化的景観を理解する上で欠くことのできない景観地である。
三島橋
四万十町内各地の沈下橋、鉄道
中流域
高知県四万十町
国指定重要文化的景観:四万十川流域の文化的景観 中流域の農山村と流通・往来
四万十川は里をぬって緩やかに流れていく清流として景観が国指定の重要文化的景観となっている。水量が増した時水没する沈下橋が多数あることでも知られる。
四万十町四万十大正付近
茅吹手沈下橋 四万十町十和
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