京都府亀岡市 千歳車塚古墳
Kameoka Chitosekurumazuka kofun
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亀岡盆地東北部、稲築山から伸びる台地の先端部に築造された古墳である。これまでに周濠部分に関して数次の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は現在約82メートルであるが、元は88メートル程度あったと見積もられる。前方部が発達しており、前方部幅が後円部直径を上回るという特徴を有する。墳丘の左くびれ部には造出を持つ可能性が指摘される。また他の外部施設として、墳丘表面には葺石・埴輪が認められている。墳丘周囲には2重の周濠が巡らされ、そのうち内濠(盾形周濠)の痕跡は現在にも墳丘周囲の一段低い平地として認められる。これら墳丘と周濠は墳丘主軸線に対して左右非対称で、かつ後述の「片直角型」をなすのが本古墳の最大の特徴になる。主体部となる埋葬施設(内部施設)は未調査で、明らかではない。
この千歳車塚古墳は、後円部付近より出土した円筒埴輪から、古墳時代後期の6世紀前半頃の築造と推定される。築造当時としては丹波地方で最大規模で、近畿地方でも屈指の規模になる。律令制下では和銅6年(713年)に分国されるまで丹波国・丹後国は1つの国であったことから、本古墳の被葬者も丹波・丹後地域を統括する勢力を有したと推測される。また本古墳は古墳時代中期の伝統的な「片直角型」前方後円墳を採用し、同時期の大王墓で継体大王(継体天皇)真陵とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)のような新しい「剣菱型」前方後円墳とは性格を異にするという特徴を有しており、一説に被葬者は継体大王と同格の皇位継承候補者であった倭彦王(仲哀天皇5世孫)に比定されている。本古墳の築造後は、当地で首長墓は営まれず、本古墳に続く首長墓は口丹波の他の地域に移された。
(ウィキペディア「千歳車塚古墳」より)
西北西から見た全景、手前(北側)が前方部、向こう(南側)が後円部
墳丘の西側を南へ、後円部の周濠跡
元に戻り、前方部の北側を東へ、東北から見た全景
東から見た遠景
付近の風景
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