京都府亀岡市 楽々荘
Rakurakuso,Kameoka city,Kyoto pref.
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July 28.2016 中山辰夫
京都府亀岡市北町
楽々荘は、和洋折衷の建物と廻遊式池泉庭園をもち、明治大正期の特色を有している。
この楽々荘は元、田中源太郎(旧山陰線、京都—亀岡間鉄道創建者)の邸宅であった。戦後、戸を閉めたままになっていたが、1953(昭和28)年頃から楽々荘と名付けて料亭を開業、現在に至っている。
裏門付近〜表門 雑水川に沿って裏門から塀が続く。 巨木はエノキ
京都銀行隣りに楽々荘の正門がある。この京都銀行が建つ場所は、田中家一門によって1884(明治17)年に設立された亀岡銀行が設立開業した場所である。
正門を入ると、アカマツと蘇鉄の前庭、そこに玄関がある。広い一間の廊下が続き洋館と和室をつないでいる。
玄館 「国登録有形文化財」
1898(明治31)年頃 木造平屋建,瓦葺,建築面積83㎡
洋館の南西側にあり、廊下を介して和館に通じる。式台を備えた本格的な和風の玄関だが、入母屋造の妻を小さくおさえる等、全体のバランスに配慮したつくりとなっている。
洋館 「国登録有形文化財」
煉瓦造一部木造2階建,瓦葺,建築面積103㎡
設計施工は清水組である。東と南にベランダを持つ外観に特徴があり、内部の各室の床や暖炉の仕様を変える等、各部に用いられた技能の水準が高い手の込んだつくりの建物である。
煉瓦積と半円アーチ窓が端正さをだす。塀にも使われている赤いレンガは、京都から亀岡まで鉄道敷設の時、トンネルに使った連がと同じものが使われている。
洋館は上下共に二室 室内の椅子や調度品はそのまま。絨毯も一室は当時のまま。
一階主室の天井は二重折上格天井であるが、次の間は白漆喰を塗りまわしている。暖炉は白大理石。
階段周辺
2階主室
亀甲形の格天井。暖炉は木枠にタイルが張り付けてある。
床の異なった寄木や意匠、インテリアが各室で異なり、外観、内部共に充実している。洋風意匠の地方への広がりがわかる。
ベランダ
庭園に面する東側から南側にかけてベランダが廻る。ベランダ周りの細い柱、2階ベランダ先に建てられたガラス戸の細い桟等の雰囲気がいい。
1枚1枚パテで張りつけたガラス戸のタテとヨコの線が、白井幾何学模様をつくって洋風を感じさせる。
ベランダより見る日本館の屋根
洋館前の廊下の突き当たりからが豪壮な和室建築となっている。
日本館 「国登録有形文化財」
木造平屋建,瓦葺,建築面積235㎡
和館部は、当初は主人室、夫人室として使用されていたと伝える。平屋建だが、屋根は庇屋根を廻し二重とする。主人室・夫人室の室内意匠を変えており、とくに両室のトコ㎡棚の構成や用いられた材料の扱い等に技術と技能の水準の高さを見ることができる
参考資料 ≪国文化財データーベースより引用≫
田中源太郎氏は、丹波地方だけでなく、広く知られた明治大正時代の著名人である。実業家で府会議員、衆議院議員、貴族院議員を務めた。
楽々荘は田中源太郎氏の本邸として建設された。
中でも、1895(明治28)年に京都鉄道㈱会社を起こし、1899(明治32)年に京都から園部間に鉄道を敷設したことで、現JR山陰生みの親として知られる。
嵯峨・亀岡間の八つノトンネル工事から、険しい山崖を通すための難工事。それを3年余の歳月で完成した。
明治・大正期の実業家で府会議員、衆議院議員、貴族院議員を務めた亀岡出身の有力者、田中源太郎氏の本邸として建設された。
現在楽々荘に入る門は、当初は開かずの門で閉じたままであった。時代が変わり、通用門が無くなり、開かずの門が開いて客を迎えている。
楽々荘 庭園
庭園は廻遊式池泉庭園で、京都府名勝に指定されている。
建物の前を広くとって芝生とし、次第に低くなって池。池には中の島・築山・橋を渡している。1,600㎡にも及ぶ広大な庭園で、7代目小川治兵衛の作庭。
現在楽々荘に入る門は、かっては開かずの門で閉じたままであった。時代が変わり、通用門が無くなり、開かずの門が開いて客を迎えている。
1,600㎡にも及ぶ広大な庭園は篠町の山本の山々を借景とした庭園である。
大きな亀石。背後に樹木の植え込みになっているが、愛宕を借景としたと思われる。
作庭は7代目小川治兵衛とされる。治平が手がけた京都市内の清風荘(西園寺公別邸)と同じ頃に作庭された。
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