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京都府亀岡市 市街

Downtown Kameoka city,Kyoto pref.

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July 28.2016 中山辰夫

亀岡市内めぐり 

丹波口亀山藩の城下町亀岡には、藩主が帰衣し興隆させた社寺が多く、華やかな亀岡祭の山鉾を始め、文化財が多くあるとされる。

時間調整の僅かな時間内での散策のため、城跡周辺を任意に歩いた。

1−亀山城跡周辺

亀山市荒塚町内丸1

最寄はJR山陰線 亀岡駅

2008(平成20)年に完成した新しい駅。北口にはJリーグ 京都サンガFCの新本拠地として専用スタジアムの新設の計画がある。

    

亀山城城跡は、JR亀岡駅の南側正面に見える森が「丹波亀山城」の主郭部分である。

亀山城址は宗教法人「大本」の所有地となり、聖地・天恩郷が建設されているため、許された散策路を歩くだけである。

丹波亀山城は、1577(天正5)年から79年に掛けて明智光秀が丹波攻略の拠点として築いた平城。城下町は、近隣9カ村から人々を集住させて21の町をつくったといわれる。光秀が羽柴秀吉に破れた後、城主は転々としたが城郭整備は続けられた。徳川の支配になって、1621(元和7)年城郭が完成した。

5層の層塔型天主は、伊予今治から藤堂高虎が引き移したとされる。本丸などの内郭を、3重の堀で囲み城下町までを一体化した近世城郭であった。

 

1896(明治2)年版籍奉還の時点で地名が亀山から亀岡に改称され、亀岡藩となった。1878(明治11)年廃城令で解体され荒廃した。

1919(大正8)年に、宗教法人大本教が本拠地として購入、戦後に復興・整備されて閑静な神苑として維持されている。

城跡へは亀岡駅南出口から歩く。

もと城の内濠だった所に南部公園とあり案内がある。鯱の復元ブロンズが建つ。堀に沿って散策道がある。城跡碑も見られる

        

もともとの鯱一体は、京都府立医科大学に保管されている。

城跡への入口

 

一帯は宗教法人「大本」の天恩郷 総合受付で見学の申し出をする

        

聖師出口王仁三郎が亀山城跡購入後、信徒を動員して摘み直したとされる石垣が現れる。静寂で、緑深く「自然の佇まいを活かし、天上の霊国(浄土)を地上に移写した聖地」と説く雰囲気が感じられる。

天主台の一部 かつては5層5階の大天守と2層の小天守が建っていたとされる。下三段までが往時の石組と推定されている。

     

大イチョウ 近づけないので詳細不明

   

その後も聖域を示す箇所や石積が連なるヵ所を見ながら出口に着く。夏を忘れさせる新緑が出口(入口)まで続いた。

      

エノキの大木

    

亀山城下には、三宅・古世・中矢田等の村々が組み入れられ、 近隣住民を移住させるとともに商工業者を集めて町並みがつくられてきた。

城の西側から南側にかけて形成されていた町人の居住区が現在も殆どそのまま原形を保っており、北町・西町・紺屋町・本町・柳町・塩屋町・旅篭町・呉服町・京町・横町・突抜町などの旧城下町の町割も名称もそのままである。

さらに城の南を取り巻く三重目の堀として築かれた惣堀の内側には土塁を築き、 その内側に有事の際の防衛陣地となるよう配置された寺院が残っている。

   

城下町を通過する山陰道に沿って旅籠町を始め、町並みが築かれている。

城下町の伝統的な町並みは、間口が狭く奥行きの深い屋敷割で、妻入り塗り込めの中二階建てで虫籠窓・桟瓦葺きの家屋のようであった。 

1−内丸町周辺

昔は城内屋敷、明治は地方行政の公的機関、今は小・中学校と文化・福祉の町へと移って行った

形原神社 (かたはら)

亀山藩の政庁であった御館跡(おやかた 現、市立亀岡中学校)に建つ。旧藩主形原松平氏の遺徳を偲んで、歴代藩主を祀る祖霊社として創祀された。

    

鍬山神社の御旅所。鍬山神社の神幸祭(おいで祭り」)では、二基の神輿が出御し形原神社の拝殿にとどまる。町中は普段と打って変わった賑わいを見せ、宵山から本祭りには町一帯に露店がならぶ。辻に11基の山鉾が建てられる。

2−本町周辺

(中二階建て妻入り・切妻造り・庇付き・塗り込め)、(妻入り・切り妻造り庇付き・塗り込め)、(妻入り切妻造り庇付き塗り込め)、など商家の建物が残る。

本町通り 住宅街で看板などが少ないすっきりした町である、

   

山脇東洋の生家

    

山脇東洋と書いた看板が立つ風格ある屋敷。山脇東洋(1705-62)は亀岡出身の医師で、清水立安を父にもち、1754(宝暦4)年京都六角獄舎において官許を得た日本初となる人体解剖を行った。

「本町辻子」に並ぶ寺院 寿仙院・法華寺・本門寺・妙見さん・鬼子母神・天神さん・弘法さん・大黒さん 特色ある参道である。

 

壽仙院 浄土宗 1572(元亀元)年創建、光秀が篤く帰衣した大誉春光和尚を中興開山として本丸にあった。城主・前田玄以が現在地に移した。

   

法華寺 日蓮宗 1464(寛政5)年創建 本堂は1709(宝永6)年建造で、城下の寺院本堂では一番古い。

  

本間寺 法華宗 正和年間(1312~17)京都二条柳馬場に創建、応仁の乱で焼失、1600(慶長5)年現在地に移る。門前の題目石は1718建立とある。

  

妙見さん・ほか

    

立派な旧家 妻入り建て町家 入口が建屋の妻側にある

  

突き当たりが山陰街道(京町通り)

  

その近辺の家並

      

3−柳町周辺

本町の南側、東西に通じ、本町とほぼ平行である。東へ旅籠町から突抜町など城下町時代からの古い道である。

この町の鉾は「高砂山」、1755(宝暦5)年創建された。1825(文政8)年曳山として再建され、現在の山となっている。「尉」(老爺)と「姥」のおめでたい鉾。

  

本町と殆ど平行 東へ旅籠町から突抜町の傍を通ってクニッテル通りまで直進 城下町時代からの古い道

  

4−旅籠町

新町と横町の間を東西に結ぶ街道に面した両側の地域が旅籠町。山陰街道の旅籠の町であり本陣があった。数件の町家が見られた。

その通りの稲荷山山鉾蔵

  

昔の本陣跡の亀岡病院

  

白壁の老舗「成田米穀店」と亀岡天理教分教会—亀山城大手門からの濠があった所を埋めて造成された。

    

5−横町周辺

横町では浅井晩翠堂(茶舗・平入り・入り母屋中二階建て塗り込め虫籠窓・桟瓦葺き)、長谷川酒造(中二階建て妻入り・切り妻造り庇付き・白漆喰塗り込め・桟瓦葺き)が重厚な構えの商家の建物が残る。

通りと丹山酒店 1882(明治15)年創業 「酒造りは米作りから。米作りは土壌から」がモットー。見学可

    

突抜町(つきぬけ)通り

     

ひしほの匠庵〜難波醤油醸造

    

創業1866(慶応2)年 醤油醸造一筋 店頭には山椒醤油や卵かけご飯専用醤油など、いろんな醤油の「味見コーナー」がある。

裏に『難波醤油醸造』がある。見学ができる。

西堅町・東堅町 大きな町家は眼に入らなかったが、相応の町家は残っている。

称名寺 浄土宗 亀山城とは特に関わりがない

             

東堅町

聖隣寺 臨済宗 夢窓国師の5世法孫である至圓周悟禅師により創建された。小早川秀秋寄進のケ寺の一つ。毘沙門天を祀る。

       

羽柴秀勝が実父である信長を弔うために建立した石塔が境内の一角に建っている。光秀ゆかりの地である亀山に、信長の供養塔が建ち、それを建立したのが秀吉の養子・秀勝とは、天下の趨勢、時代の流れを感じさせる。信長公忌と合わせた6月2日前後に毘沙門天祭が行われる。

 

聖隣寺毘沙門堂 毘沙門天は市の文化財

   

千歳町の国分寺から亀山城に、そしてこの寺の建立と共に祀られた。石の灯明台は1845(弘化2)年の造立と彫り込まれている。

遠見遮断

  

聖隣寺の北側を鍵の手に曲がった道。一本の道を屈曲させて設けたり、丁字路、喰い違い、 鍵の手. 等の防衛上の工夫がなされている。

道の辻には寺を置き、いざという時の防備とした。聖隣寺・称名寺・宗堅寺・嶺樹院などはその役目を持った寺だった。

京町通り

      

古世地蔵堂

山陰街道の西堅町から横町へ曲がる角に立つ

    

鵺(ぬえ)退治で知られる源頼政の守り本尊と伝えられる地蔵菩薩を祀る。錫杖(しゃくじょう)の代わりに矢を持った姿で、地蔵尊としては珍しいとされる。

西堅町

宗堅寺と木像如意輪観音坐像 京都府指定有形文化財 曹洞宗 1492(明王元)年に長徳寺として創建 

    

聖隣寺と向い合った広い参道があって、その奥に山門がある。1635(寛永12)年菅沼定芳が入封の際に父の菩提寺として改修、改名した

矢田町

正誓寺 真宗 (1578)行信坊教善が開基 現在の本堂は1561年に、親鸞聖人50回忌に当たる1761年に前身の本堂の部材を利用して建立された。

   

寺院も城防御の役割を担った。「正誓寺」は城下への入り口である矢田口の要の位置に配置されている 。

亀山祭山鉾行事

亀山城跡約1km南に鎮座する鍬山神社(くわ)の秋季大祭に際して、毎年10月23日〜25日の間、旧亀山城下町に山鉾11基が繰り出す。

明智光秀の丹波侵攻により神田などが没収され、それまでの祭礼が悉くすたれたとされる。

その後歴代の亀山城主の庇護を受けて徐々に復興され、現在の山鉾は1681(延宝9)年頃から旧規に倣い復興され、1749(寛延)年以降次々と建造された。

当初は舁き山(かき)として建造されたが、曳山へと改装されていった。飾りの懸装品は、西陣の綴れを始め、渡来染織物が多く用いられている。

    

引用 一般社団法人マーチング委員会、市HP

参考資料 亀岡市志、亀岡風土記、京都府の歴史散歩、他

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