JAPAN GEOGRAPHIC

京都府木津川市 当尾の石仏

(Stone Buddhist Images at Tono Area, Kizugawa City, Kyoto Pref.)

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October 29, 2023  野崎順次  source movie

京都府木津川市加茂町
当尾石仏めぐり


岩船寺・浄瑠璃寺バリエーションルート


以前とは異なるコースである。

 

岩船寺前から西南に進み、集落から山道に入ると、すぐに一願不動がある。

       

府文 岩船(いわふね)(一願)不動明王磨崖仏 鎌倉時代中期 高161cm 花崗岩
岩船寺の西南方、山道から下りた谷間の藪かげに露出する大きい岩面に薄肉彫される。両眼を見開き、剣を右手にかまえ、索を左手に持つ。勇壮さよりも温和さが勝ち、古様な落ちつきを見せる。風化の少ないのは崖下のためであったかと思われる。像の向って右下方に、「弘安十年(1287)亥丁三月廿八日、於岩船寺僧□□□令造立」と二行に銘文を刻む。附近の「さんたい弥陀三尊磨崖仏」と共に、岩船寺僧の石仏造立発願を証する遺品である。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998.09.30.)

          

それから急坂を下り、巨大な八畳岩を経由して。わらい仏の横に出る。

             

前にも歩いたなだらかな道(奈良道)を下るとカラスの壷二尊(阿弥陀・地蔵磨崖仏)の前に出る。そのまま行かず、左に上る。これがかつては笠置・奈良を結ぶ奈良道だった。100mほどで一鍬地蔵だ。
      


一鍬線刻地蔵石龕仏 鎌倉中期
「一鍬地蔵」と書いた標識があり、上を見ると崖の上に長方形の岩がある。岩は長方形に削られ、石龕になっていて、中には像高約165cmの地蔵菩薩立像が線刻されているが、下からでは頭部の放射光が見える程度で、はっきりと見えない。山本寛二郎が昔採った拓本(『南山城の石仏 上』)を見ると、宝珠と錫杖をもつ線刻の地蔵菩薩立像で、縦長の顔、長い錫杖、衣の裾がスカートのように横に広がる点、衣紋の表現は春日原始林の洞地蔵に似ている。洞地蔵には建長六年(1254)の銘があるので一鍬地蔵も同時代のものと思われる。
地元の伝説では、力持ちの「ずんどぼう」が東大寺に行く時にこの場所を通りかかり、大きな鍬の一振りで岩を掘り削ったことから、「一鍬地蔵」の名がある。
(石田正道「南山城 石仏の里を歩く」2015.10.21.)


            

元に戻り、あたご灯篭・藪の中の三尊・東小墓地(前回撮影済み)から竹藪の中の細い道に入る。途中で上中下と三つの道に分かれるが、その中を直進すると、右手上方、太い竹の間に露岩が見える。

                   

南大門墓地崖下(谷ノ下)三尺地蔵摩崖仏 室町時代中期
南面の竹藪斜面に突き出した小山状の花崗岩に刻み出された地蔵磨崖石仏は穏やかな表情で訪れた僕たちを迎えてくれました。地蔵は右手に錫杖、左手に宝珠を掲げた定形地蔵立像・・・・。船型光背を深く彫沈め、外部に線彫りされた大きい蓮弁の上に像高約1m足らずの中肉彫で刻み出している。幻の蔵磨崖仏とも呼ばれているようです。
(愛しきものたちサイト)

           

元に戻る。

      

浄瑠璃寺参道あたりの花々

                   

木津川コミュニティバスで加茂駅へ

                   


October 21, 2023  野崎順次  source movie

京都府木津川市加茂町
当尾の石仏めぐり
北下手の大蔵墓地

下手口バス停で降りて、北下手の大蔵墓地をめざす。山の中にあって、室町時代の十三仏種子板碑や鎌倉時代の五輪塔があるそうだ。

   

涼み岩、森八幡宮で遠景を紹介したが、今回はもっと近づいて撮影した。森八幡の神様が夕涼みをすると伝えられている巨石。

       

北下手の集落、鉄道マニアなのか、入り口に踏切遮断機、奥に貨車があった。

        

集落のはずれの石仏と板碑

       

平坦な山道を行く。

         

大蔵墓地への道、緩い坂道で所々に石仏がある。

              

大蔵墓地の入り口

     

地蔵石仏(墓地入口)

     

寄棟造の笠を持つ双仏石で、蓮華座上に二体の地蔵立像を半肉彫りする。

    

六字名号板碑 江戸時代前期 寛文十三年 1673年 高さ 102cm

  

阿弥陀坐像板碑 桃山時代末期 慶長十五年 1610年 高さ127cm

     

十三仏種子板碑 室町時代後期 永禄六年 1563年 高さ 119cm

     

後に回ったり、周囲を見たり

        

六地蔵石仏 江戸時代 宝永七年 1710年 花崗岩 高さ 94cm

   

五輪塔 鎌倉時代後期 花崗岩 高さ 185cm

        

地蔵石仏(墓地中央)

       

その他

         

周囲の自然を楽しみながらバス停に戻る。

              

下手口バス停の近く、森の集落に向かう三叉路に巨石を使った庭園跡がある。豪快な立石、三尊石、自然石の橋などが残り、想像力が掻き立てられる。

                        

参考資料
河合哲雄「石仏と石塔」サイト


October 7, 2023 野崎順次  source move

京都府木津川市加茂町
当尾の石仏めぐり
南下手から大畑

下手口バス停で降りて歩き出す。彼岸を過ぎても猛暑の名残があり、彼岸花の盛りが10日間くらい遅れたようで、各所で楽しめた。

Google Mapに双体仏(南下手区公民館周辺)とあるが……

     

南下手から森八幡宮

                

高去(たかさり)から勝風(しょうぶ)

         

勝風地蔵石仏(青地蔵) 室町時代 像高 62cm

        

勝風地蔵石仏(赤地蔵) 室町時代 永禄八年(1565)高さ104.5cm 像高 50cm

           

大畑地区に入ると茶畑が多い。

         

大畑墓地石造物群
墓地移転に伴い、室町後期の板碑などを中心に、石仏や石碑、石塔が集められている。

                

大福寺跡地蔵石仏 室町時代(1441)
現在大畑地区の集会場となっている場所に大福寺というお寺があったそうだ。

         

大畑口のバス停へ

   

参考資料
河合哲雄「石仏と石塔」サイト
木津川市ウェブサイト


September 2, 9, 10 and 18, 2023 野崎順次  source move

京都府木津川市
当尾の石仏


加茂町高去垣内
高去(たかさい)集会所の石造物群
        


六字名号板碑(室町時代 永禄五年 1562年、高さ 127cm)
  


六字名号板碑(室町時代 永禄七年 1564年、高さ103cm)
   


六字名号板碑(桃山時代 慶長九年 1604年、高さ 101cm)
  


加茂町岩船北谷
岩船墓地六地蔵石仏龕 鎌倉時代後期 高112cm 花崗岩
墓地入口に立つ六地蔵であるが、この石仏龕は古様式である。寄棟造の屋根は鎌倉末期の軒反りを示す。軸部は高77cm、幅149cmの周囲を四方隅切に縁取りしてほりくぼめ、内に六体の持物の異なる地蔵像を並べて陽刻する。像高は44cmである。墓地の六地蔵遺品としては最も古い例であろう。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年9月30日)
               


加茂町岩船北谷
岩船観音寺跡、かって観音寺があった広場に立つ板碑で斎講(ときこう)の名が刻まれる。斎講はこの地の講中で、多くの石造物を残している。

六字名号板碑(室町時代後期 永禄七年 1564年、花崗岩、高さ 107cm
頂部山形、その下に二条線、身部は枠取りし「南無阿弥陀仏」の六字名号を大きく刻み、左右の束に銘文、下部に十名の名を刻む。左右の束に「時講永禄七年(1564) 甲子結衆、供養十月十五日敬白」と刻み、阿弥陀仏の縁日である15日に造立した


岩船 観音寺跡(いわふねかんのんじあと)笠塔婆 (南北朝時代、花崗岩、高さ 210cm)
塔身上部、金剛界四仏を蓮華座上月輪内に刻む(タラーク:宝生如来)
        


その他石仏群
   


加茂町尻枝浅生91
金蔵院境内、室町時代以降の石造物が集まられている。
    


金蔵院 六字名号板碑(室町時代、大永六年 1526年、高さ 100cm)
     


十三重石塔(塔身に四方仏を刻む)
           


その他
                    


浄瑠璃寺から西小墓地方面に下る。以前に撮影した浄瑠璃寺道三体磨崖仏と長尾阿弥陀磨崖仏の前を通過する。
             


西小長尾共同墓地の石造物群(国重文の五輪塔2基を除く)
                 


加茂町西小峰畑
たかの坊地蔵石仏 (南北朝時代、花崗岩、高さ 168cm 像高 115cm)
縁取りのある船形光背を負い、右手は施無畏印で錫杖をもたず、左手は胸前で宝珠を持つ矢田寺型地蔵の形をとる。
         


その他
    


加茂町森上垣外
神福寺跡笠塔婆(鎌倉時代後期、花崗岩、高さ 121cm 幅 28cm)
笠塔婆は正面に二段、舟形の彫り込みを作り、上段に阿弥陀如来、下段に地蔵菩薩を薄肉彫りする。足下に、陽刻された蓮華座がある。宝珠と笠は後補。
                     


浄瑠璃寺参道から赤門坂峠まではしっかりした道である。峠を過ぎてから左に下る。
            


加茂町西小長尾
赤門坂水呑み地蔵 (鎌倉時代中期、花崗岩、像高 180cm)
三角形の花崗岩に、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ量感のある地蔵菩薩坐像を蓮華座上に厚肉に刻む。火災にあい、風化もかなり進んでいる。
            


浄瑠璃寺に戻る。
    


July 16 and 22, 2023 野崎順次  source move(July 16)  source move(July 22)

京都府木津川市加茂町
当尾の石仏めぐり

パンフレット
    


7月16日 奈良からバスで浄瑠璃寺に来た。東小から辻に歩こうと思う。
     


首切地蔵 (東小阿弥陀石龕仏) 弘長二(1262)
東小会所弥陀石仏 鎌倉時代中期 高さ 133cm 花崗岩
浄瑠璃寺の東方、藪の中地蔵から北へ道をたどると東小の集落のそばに会所があり、その広場の西端にこの石仏が安置されている。古くは大字辻の方にあったのを、ここへ移座したのである。長方形の石の表面いっぱいに舟形のほりしずめを作り、その中に定印の弥陀坐像を半肉彫するもので、像高は約1メートル、しっかりした顔や大まかな衣文の表現は、藪の中地蔵と共通し、同作者の彫刻と考えられる。膝の下方に線刻で蓮座が作られている。舟形内の像の両側に各一行として、「弘長二年(1262)壬戌 卯月十二日刻彫畢、願主東小田原住口口口」の銘がある。当尾の在銘石仏としては最も古い。石材の上端に低い柄があるので、もとは笠をのせたことが知られる。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年9月30日)
          


東小墓地
   


東小墓地地蔵石仏 江戸時代前期 元和三年 1617年 花崗岩 高さ 107cm
蓮華座上に立ち、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通有の地蔵菩薩で、紀年銘と「為奉善定門」を刻む。
 

東小墓地五輪塔 鎌倉
東小墓地の総供養塔。西小墓地の2基と同系で基壇の上に蓮弁台座があり、その上に五輪が乗っています。一部欠損がみられますが、当尾では岩船寺のものに次ぐ大きさです。
     


山道を行く。今回は大門石仏方面ではなく、右に行く。
     


穴薬師 鎌倉
数枚の板石の石龕の中に、薬壷を持った薬師如来石仏が祀られています。向かって右に愛宕(あたご)燈籠が建ち、周囲には室町期の石仏が安置されています。耳病に効のある仏様です。
         


山道を歩き、千日墓地(別項参照)を過ぎ、新川石仏群を経由して辻地区へ
                


辻地蔵・不動明王摩崖仏
不動明王磨崖仏 南北朝時代 花崗岩 高さ 42cm像高 33cm
辻地蔵菩薩 室町時代 高さ115cm 像高 78.5cm
                  


小さな祠と宝珠禅寺
     


宝珠禅寺五輪塔 鎌倉時代末期 花崗岩 高さ 168cm
大和形式の反花座を持つ五輪塔の秀作、地輪がやや高い、水輪はやや肩の張った壺型
        


六字名号板碑と地蔵石仏
       


当尾保育所の廃屋と2012年に廃校となった当尾小学校の校舎(現在は当尾の郷会館)、そして国栖神社
        


バスで辻から岩船寺を経由して浄瑠璃寺へ
          


浄瑠璃寺奥之院への入り口(奥之院へは危険のため通行禁止)
   


浄瑠璃寺道三体磨崖仏 室町
元は磨崖仏だったものを、府道拡張工事に伴い移動された。その際一部が破損してしまった。右側には錫杖を持った地蔵菩薩坐像が彫られています。
     


長尾阿弥陀磨崖仏 徳治二年(1307)
美しい連弁の台座に座り、両手を腹部の前で∞形にした定印の阿弥陀。像の頭上に斜めに割れ目が走るが、後方の山から巨岩が続き、前面もコンクリートで固めているので、これ以上割れる心配はないそう。
         


7月22日 浄瑠璃寺でバスを降り、東小から大門方面に行く。
  


大門石仏群
地蔵仏を中心とした石仏群で、花崗岩で刻まれている。室町時代以降の作品
大門の近くにあった阿弥陀寺跡鎮守社の石仏、石塔などを寄せ集めた石仏群という。
             


方形の石を枠取りし、内部を彫り込み、阿弥陀像を厚肉彫りする。
   


方形の石を彫り込み、右手錫杖・左手宝珠の地蔵を厚肉彫りする。
      


笠石が載った地蔵石仏
     


双仏石
   


五輪塔型が二基彫られた板碑
    


それから
    


大門如来磨崖仏 平安時代後期 高さ260cm 花崗岩
前後に長い大きい岩の先端を平らにして、笠置磨崖仏のと同じような二重光背形を浅く作り、その中をさらにほりくぼめて、古風な裳懸座の上に坐る如来像を半肉彫する。以前樹木がおおってよく見えなかったのを、近年太田古朴氏らの清掃によって鮮やかな仏容を拝せるようになった。定印の弥陀に似ているが手の印の結び方が特殊である。幅のある円い仏顔、肩が盛り上がって首が埋まるような豊満な仏身の表現には、平安末期にさかのぼる磨崖仏としての特徴を示している。この附近の当尾は石仏群在の地であるが、その中で最も古いのがこの磨崖仏である。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年9月30日)
               


加茂山の家を通過して西小三叉路へ
        


草が生い茂って全体像がよく分からない。

浄瑠璃寺道丁石笠塔婆 南北朝
丁石は加茂の里から浄瑠璃寺まで1丁(約109m)毎に浄域に近づく際の笠塔婆で、鎌倉時代末期に建てられました。それぞれ上部に梵字が刻まれています。今は浄瑠璃寺参道の笠塔婆を含めわずか 4本しか残っていません
     


ツジンドの焼け仏 元亨3(1323)
西小三叉路近くの旧道に建っています。「ツジンド」とは「辻のお堂」のことでしたが、火災で焼失し、石仏も損傷を受けました。中央に阿弥陀如来、両脇に錫杖を手にした十一面観音と地蔵を従える堂々とした石仏です。浄土信仰と地蔵信仰が結合した所産です。
          


浄瑠璃寺口方面の展望
  


参考資料
河合哲雄「石仏と石塔」ウェブサイト
木津川市観光ガイド当尾の石仏ウェブサイト


July 2, 2023 野崎順次  source move

京都府木津川市加茂町
当尾の石仏めぐり 岩船寺から浄瑠璃寺


石仏の詳細説明は木津川市観光ガイドウェブサイト「観光スポット 当尾の石仏」から引用させていただいた。

パンフレットなど

            

岩船寺から南南東(三体地蔵)に向かう石仏の道を行く。しばらく行くと細い山道になる。

        

三体地蔵磨崖仏 鎌倉末期
旧道沿いの岩肌に、長方形の龕を彫りくぼめ、三体の地蔵菩薩が厚肉彫りされています。三体とも左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。過去、現在、未来をそれぞれ割り当てたもので、六地蔵信仰以前の地蔵信仰の一形態といわれています。

          

向かって左の面に仏像らしき形がある。

     

車道に出るところに首のかけた地蔵さん

    

ミロクの辻弥勒磨崖仏 文永11(1274)
山際の巨岩に高さ2.5mほどの仏さまが線彫りされています。これは笠置寺本尊の弥勒磨崖仏(現在は焼失し、光背が残るのみ)をかなり忠実に模写したもので伊末行の作です。

         

谷沿いに下り、四面地蔵石仏を過ぎる。

        

眠り仏(埋もれ地蔵) 南北朝
わらい仏の向かって左脇に、半身を土のお布団にくるまれて心地よくすやすやと眠るお地蔵さまがいらっしゃいます。眠りながらも右手には錫杖を持っておられます。わらい仏と同じ伊派の石工行経(作)か?


       

府文 わらい仏(岩船阿弥陀三尊磨崖仏) 永仁7(1299)
当尾の代表的な石仏の一つです。蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏です。永仁7年(1299)の銘文があり、上部の屋根石が廂となっているので、風蝕の影響も少なく保存状況は良好です。特に夕陽の中にたたずむ、やさしい微笑みをたたえた姿は微笑ましいものがあります。伊行末の子孫(と伝えられる)末行(作)

                  

歩きやすい広めの参道を浄瑠璃寺方面に行く。

       

カラスの壷 康永2(1343)
古くからの分岐点にあります。岩の中央に15cmほどの穴が掘られた礎石が粉を挽く唐臼に似ていることから「からすの壷」と呼ばれます。

     

カラスの壷二尊(阿弥陀・地蔵磨崖仏) 康永2(1343)
一つの岩に阿弥陀如来坐像と、面を変えて地蔵菩薩立像が彫られています。阿弥陀仏の横に線彫灯籠は、火袋を彫り込み、そこへ燈明が供えられる珍しいものです。

                     

東小田原随願寺跡と一枚岩の橋

    

東小の人里が近づいてきた。

           

あたご燈籠 江戸
三叉路に建つ形式にとらわれない変わり燈籠で、愛宕神は火の神様(火伏せ)を司っています。当尾ではお正月にここからおけら火を採り雑煮を炊く風習があったそうです。同型の燈籠が、穴薬師の前と岩船の集落にもあります。

      

藪の中三尊磨崖仏 弘長2(1262)
もと浄土院という塔頭の本尊であったと思われます。藪の中の岩に舟形の光背を彫りくぼめ、中央に地蔵と十一面観音、向かって左に阿弥陀を配する非常に珍しい配置の石仏です。作者は橘派の橘安縄、1262年彫刻とあります。

                           


Feb.26,2018 瀧山幸伸 source movie

 

藪の中三尊摩崖仏

               

弥勒仏線彫摩崖仏(府文化財)

     

三体地蔵摩崖仏

              


Apr.19,2015 中山辰夫

当尾の石仏

京都府木津市加茂町西小及び岩船

当尾(とうのお)

京都府指定の文化財環境保全地区 「塔婆が建ち並ぶ尾根」という意味の「塔尾」からきているとされ、石仏の里として親しまれている。

やさしい起伏の山並が連なる当尾には古くから自然の中での人々の生活があった。奈良に都が移り、大寺が営まれるようになってからは浄土信仰の霊地として栄え、それが近世にまで続き、いろいろな仏教文化財をうみ、それを守り伝えてきた。

当尾は花崗岩が豊かで、それが山肌に現れている南部には鎌倉時代、都の名匠の手による立派な磨崖仏が次々と刻まれた。

奈良から笠置、そして伊賀伊勢への古道近くに浄瑠璃寺、岩船寺、その中間に栄えた随願寺、それらの子院や塔頭の本尊という性格を持つ磨崖仏が多い。

   

奈良県境にある当尾の岩船寺は、天平元年に行基が創建したとされる古寺。本堂や三重塔があるだけの境内は狭いが石塔や石仏など貴重な石造が多い。

寺の門前には岩をくりぬいた石船がある。岩船寺と浄瑠璃寺を結ぶ山道1.5キロメートルを中心として広範囲に平安時代から室町時代の石仏や石塔が点在する

岩船寺と浄瑠璃寺

             

無人販売所や茶店などを抜けて、道標に従って石仏を見ながら浄瑠璃寺へと向かう。車道から外れて山道を辿る。

       

岩船寺から歩きはじめる。

       

不動明王磨崖仏

       

童顔の美しい三体の地蔵が並び西方の眺望を見ている。中央の尊像がやや大きい。三体とも宝珠、錫杖を持つ姿で、三界の萬霊供養に発願されたという。

弥勒仏線彫磨崖像(ミロクの辻)

         

奈良から笠置への古道に面してたつ。釈迦の後継者として遠い将来この地上に下生してくれる姿。大工末行の銘を持つ。

眠り仏

       

阿弥陀三尊磨崖像(わらい仏)

         

やさしい笑みを湛えている。当尾の石仏で最も知られた石仏の一つ。上部の石が廂となって風蝕もない。大工末行の名がある。東方の弥勒仏も末行の銘を持つが年号は25年の隔たりがある。

唐臼(からす)の壺

   

古くからの分岐点で「からすのつぼ」と呼ばれる所。

阿弥陀地蔵磨崖仏

                 

一つの岩に阿弥陀如来坐像と、面をかえて地蔵菩薩立像が彫られてある。一つの四角の石に阿弥陀と地蔵を祀る双仏像は後に多く発願される。

阿弥陀仏の横に線彫燈籠、火袋に彫りこみをつくり、そこへ灯明が供えられるめずらしいもの。

随願寺跡

立ち入り禁止である。

浄瑠璃寺を「西小田原寺」と呼び、こちらは「東小田原寺」とも呼ばれた。

「大乗院自社雑事記」では、「明応二年から二百余年以前に大きな火災にみまわれた。さらに随願寺には三重塔もあったがそれもすでに倒壊した」と伝えており、浄瑠璃寺に匹敵する大寺院であったことが彷彿とさせる。随願寺で造立されたとされる「愛染明王坐像」は奈良国立博物館に所蔵されている。

     

藪の中三仏磨崖像

         

一つの岩に阿弥陀仏坐像、もう一つに地蔵菩薩とやや小さく観世音菩薩の両立像が祀られている。銘文で、東小田原寺の塔頭西谷浄土院と読める。

近郊にはまだまだ多くの石造物がある。地元の人たちの強い意志と努力で、懸命に保存されている。

代表的なものを並べる「引用」

あたご灯籠

 

一願不動

 

首切り地蔵

 

大門石像群

 

その他

           

≪参考≫

伊末行(いのすえゆき)

弥勒の辻・弥勒磨崖仏と同じ伊末行の作とされる、わらい仏(阿弥陀三尊磨崖仏)の像の左下の銘文に「永仁七年二月十五日/願主岩船寺住僧??/大工末行」(1299年)とあるそうです。猪末行は、南都焼き討ちの後、東大寺復興のために南宋から渡来した石大工、伊行末の子孫(孫か?)にあたります。

伊一族は、奈良近辺に残り、般若寺の大石塔など、数々の作品をこの地に残しました。

猪末行が弥勒の辻・弥勒磨崖仏を造立したのは銘文から文永十一年(1274年)とわかっています。つまり、わらい仏が造立されたのは、それから25年後ということになり、猪末行の晩年の作品と推定されています。(山本寛二郎「南山城の石仏 上」p27)


June 16, 2013 野崎順次 source movie

浄瑠璃口バス停から歩いて、浄瑠璃寺前を通って岩船寺まで石仏巡りをする。緩やかな登りの約5kmの行程である。

近鉄のてくてくマップ京都−4 「浄瑠璃寺・岩船寺石仏コース」をダウンロードして持っていった。方角や縮尺は適当であるが、観光スポットを網羅し、曲がり角の指示が具体的で実に分かりやすい。

 

田園地帯をゆく。田植えのシーズンである。

                                   

坂口橋を渡り、少し行くと道が三つに分かれるので、真中の一番細い道に入ると、

浄瑠璃寺道丁石笠塔婆 南北朝

   

ツジンドの焼け仏 鎌倉後期 元亨三年(1323)

         

それから

     

たかの坊地蔵(西小地蔵石仏) 鎌倉中期

                   

西小(にしお)長尾共同墓地石仏群 室町以降

                       

西小長尾共同墓地五輪塔(国重文)は別のレポートで

西小墓地斜め向かいのお地蔵さん

           

長尾阿弥陀磨崖仏 鎌倉後期 徳治二年(1307)

「徳治二年末丁四月廿九日造立之願願主行乗」、磨崖仏に葛西氏を乗せたのが珍しい。

                       

それから、浄瑠璃寺を通りすぎ、

       

ヤブの地蔵(三尊磨崖) 鎌倉中期 弘長二年(1262)

阿弥陀、地蔵、十一面観音が並ぶ。中央に地蔵はこの地方最古の年号と長文の銘で知られる。「東小田原西谷浄土院 願主沙弥淨法此丘尼善阿弥陀仏千手女僧戒万 与力衆僧増願僧久縁清太郎良増 弘長二年戊壬四月廿四日 刻彫畢大工橘安縄小工平貞末」。

                         

このあたり、吊り店(露店)が多い。

         

あたご燈籠 江戸

       

バス道から離れて山道に入る。田んぼにはオタマジャクシ。

                 

カラスの壷二尊(阿弥陀・地蔵磨崖仏) 南北朝 康永二年(1343)

                                 

唐臼の壺 南北朝 康永二年(1343)

         

高みに出ると遠くに笑い仏の大岩が見える。途中で横道の急坂を上ると大きな岩(八畳岩)があった。

           

府文 笑いぼとけ(岩船阿弥陀三尊磨崖仏) 鎌倉中期 永仁七年(1299)

阿弥陀と脇侍の観音・勢至を半肉彫りにしたもので、三尊の顔に笑みが感じられる。作者は大工末行。「永仁七年二月十五日 願主岩船寺住僧□□ 大工末行」。

                             

岩船寺方面から来た親子三人と遭遇。

       

笑いぼとけのすぐ横の眠り仏(埋もれ地蔵) 南北朝

               

見慣れない蝶が飛んでいるなあと思ったら、昆虫採集の人を見かけた。

     

みろくの辻弥勒磨崖仏 鎌倉中期 文永十一年(1274)

作者は笑い仏と同じ大工末行。奈良時代の笠置山大弥勒仏(元弘の役で焼失)を手本にしたと云う。ゆったりとした像容で衣の線ものびのびと見事。光背面の左右に刻銘、「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道 文永十一年戊申二月五日 為慈父上生永清造之 大工末行」。

                   

急な山道を上り、山腹を巻いていく。

         

三体地蔵磨崖仏 鎌倉末期 温和な様相

                   

とぐろを巻いたような幹を見て、山道から飛び出すと、岩船寺のある集落に出た。

       

参考資料

木津川市観光ガイドHP

「大和の石仏」清水俊明、創元社、昭和52年4月20日第3版

京都府木津川市

当尾の石仏巡り、その2

(Stone Buddhist Images – Part 2, Kizugawa City, Kyoto Pref.)

撮影日: June 23, 2013 source movie

今回のルートは、加茂駅からバスで岩船寺へ行った。そこから、一眼不動、カラスの壺を経て、浄瑠璃寺の手前で北に入り、東小墓地、大門石仏群、大門磨崖仏、加茂山の家経由で浄瑠璃寺口バス停に至る。歩行距離は計約4kmで全般的には下り坂の楽なコース。天候は小雨だった。

岩船寺から細い道を下る。ネコの愛想がよい。人々が優しいからである。振り返ると岩船の村落。

                         

府文 一願不動(岩船不動明王磨崖仏) 鎌倉中期 弘安十年(1287)

花崗岩、121cm、像の右下方に「弘安十年(1287)丁亥三月廿八日、於岩船寺僧口口口令造立」の銘文。ただ一つだけのお願いを、一心にお願いすれば、叶えてくださるという一願不動さん。

                       

急坂を下る途中に八畳岩。

         

途中のホタルブクロの花など。

               

カラスの壷二尊(阿弥陀・地蔵磨崖仏) 南北朝 康永二年(1343)

一つの岩に阿弥陀如来坐像と、面を変えて地蔵菩薩立像がある。今回は見えにくいお地蔵さんに集中した。

       

花とチョウ

               

首切地蔵(東小阿弥陀石龕仏) 鎌倉中期 弘長二年(1262)

花崗岩、高さ135㎝、像の両側に各一行刻銘「弘長二年(1262)壬戌卯月十二日刻彫畢」「願主東小田原住口口口」。当尾の在銘石仏としては最古。「首切り地蔵」の別名は、昔処刑場にいたからといわれる。

                           

東小墓地の階段を上がると左に五輪塔と地蔵石仏があります。

   

重要美術品 東小墓地五輪塔 鎌倉後期、花崗岩、高さ280cm

東小墓地の総供養塔。西小墓地の2基と同系で基壇の上に蓮弁台座があり、その上に五輪が乗る。

     

東小墓地地蔵石仏 江戸前期 元和六年(1620)、花崗岩、高さ107cm

蓮華座上に立ち、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通有の地蔵菩薩で、紀年銘と「為奉善定門」を刻む。

       

東小墓地その他。六字名号板碑(室町時代中期、高さ188.5cm)というのがあるそうだが、あいにく、意識してなかった。

           

大門石仏群(室町以降)

大門の阿弥陀寺跡や鎮守社近くにあった石仏、石塔などを集めて安置し直したもの。六字名号板碑や五輪板碑など変化に富む。

                                               

大門仏谷の如来形大摩崖仏 平安時代後期、花崗岩、高さ260cm

当尾の石仏群中、最大最古の磨崖仏で、裳懸座上に結跏趺坐する。阿弥陀如来、弥勒如来、釈迦如来などの諸説があり、また製作時期に関しても奈良前期から鎌倉中期までの諸説があり、今後の課題である。大和を代表する磨崖仏の一つであることは間違いない。

             

小雨の中、草深い道を進んで全身濡れながら、摩崖仏の足元まで行った。圧巻である。

                     

帰途

     

参考資料

河合哲雄 石仏と石塔HP

木津川市観光ガイドHP


Nov.2008 瀧山幸伸 source movie

不動明王

             

     

笑い仏

                                   

       

                     

         


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