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京都府 京田辺市/八幡市 綴喜古墳群

Tsuzuki kofungun,Kyotonabe City/Yawata City,Kyoto

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July 5,2025 大野木康夫 source movie

国指定史跡

【追加指定時の説明文から引用】
生駒山地の東斜面にあたる八幡丘陵と田辺丘陵、その南東部にある独立丘陵である飯岡丘陵には、4 世紀中頃から5 世紀初頭にかけて築造された10 数基の大型前方後円墳及び前方後方墳と大型の円墳、方墳が分布する。木津川左岸の旧綴喜郡内に分布するこれらの古墳は、共通する規範が認められるなど、一体的にとらえることができる。これらを綴喜古墳群と呼称する。
綴喜郡内の一部の古墳は、『山城志』や『山州名跡志』などの江戸時代の地誌にも記載されており、明治から大正にかけていくつかの古墳の発掘調査が行われている。明治35 年(1902)には飯岡車塚古墳後円部から車輪石4 点、石釧24 点等が出土し、大正年間(1912~26)に梅原末治がそれらの調査を実施した。また、大正年間には京都府史蹟調査会により美濃山王塚古墳や大住車塚古墳、大住南塚古墳の調査が行われている。昭和45 年(1970)には京都府教育委員会が大住車塚古墳の測量調査を実施し、その成果をもとに昭和49 年に同古墳が史跡に指定された。
綴喜古墳群で現存する主な古墳には、古墳群内でも最も北に所在する墳長約90 メートルの前方後円墳で銅鏡や石釧、甲冑等が出土した石不動古墳、墳長約120 メートルの群内最大の前方後円墳で銅鏡5 面、鍬形石2 点、車輪石10 点等が出土した八幡西車塚古墳、墳長約52 メートルの方墳であるヒル塚古墳、墳長76 メートルの帆立貝式前方後円墳で銅鏡や甲冑・武具等が出土した美濃山王塚古墳、墳長約66 メートルの前方後方墳である大住車塚古墳と、それに隣接して築造された墳長約71 メートルの大住南塚古墳、墳長約87 メートルの前方後円墳で車輪石や石釧等が出土した飯岡車塚古墳、直径60 メートルの円墳であるゴロゴロ山古墳などがある。
これらの古墳が分布する範囲は南北約11.5 キロメートルに及ぶが、古墳時代前期後半から中期前半にかけての限られた時期に集中して築造されていること、埋葬施設の内容が判明しているものは、主軸が東西方向となるものが多いこと、猪名川流域で産出した石材を竪穴式石室に用いることなど、古墳群として一定の規範を共有している。また、副葬品として中国製の銅鏡や希少な朝鮮半島系の武器・武具類が多く認められるなどもその特徴として指摘できることから、相互に強い関連性をもつ古墳群として把握することができる。
令和3 年(2021)、綴喜古墳群の東部の天理山古墳群が所在する丘陵で開発事業が計画された。天理山古墳群は、それまでは古墳時代中期から後期の4 基の円墳で構成される古墳群とされていたが、この開発事業に先立ち京田辺市が行った部分的な発掘調査により、前方後円墳2 基、前方後方墳1 基からなることが明らかとなった。そして、引き続き行われた発掘調査の結果、1 号墳は古墳時代前期後葉から末築造の墳長約57 メートルの前方後円墳、3 号墳は前期後葉から末築造の墳長81 メートルの前方後円墳、4 号墳は前期後葉築造の墳長約42 メートルの前方後方墳であることが明らかになった。また、3 号墳では茸石と埴輪列が確認されている。
この発掘調査の結果、天理山古墳群は旧綴喜郡内に集中的に古墳が築造された時期に、綴喜古墳群の中でも大型の前方後円墳、前方後方墳の空白地帯であった大住南塚古墳、大住車塚古墳と飯岡車塚古墳との間に築かれたことが明らかになった。また、綴喜古墳群内における古墳の築造は、前期後葉に八幡西車塚古墳、大住南塚古墳、天理山4 号墳、飯岡車塚古墳が築造され、前期後葉から末頃にかけて大住車塚古墳、天理山1 号墳、天理山3 号墳が、中期初頭から前葉にかけて石不動古墳と美濃山王塚古墳が築造された可能性が高く、各時期において一定の間隔を保ちながら大型の前方後円墳、前方後方墳が築造されたと考えられる。
古墳時代前期後半は日本列島最大規模の前方後円墳を含む古墳群が、奈良盆地東南部の大和古墳群から奈良盆地北部の佐紀古墳群へと移動する時期にあたる。そして、その要因として奈良盆地北部から木津川、淀川を経由して瀬戸内海へと繋がるルートの重要性が増した可能性が指摘されている。木津川沿いに展開する綴喜古墳群の築造は、佐紀古墳群の築造時期にほぼ重なっており、大王墓を含む古墳群の動向との関連性が認められる。このように綴喜古墳群は、大王墓の移動にみられる王権中枢の動向が地域首長に及ぼした影響を、ヤマト政権直近の地において明瞭に示しており、当時の政治的、社会的な情勢を考える上で重要である。よってすでに指定されている大住車塚古墳に加えて、条件の整った八幡西車塚古墳、天理山古墳群、飯岡車塚古墳を追加指定するとともに、名称を「綴喜古墳群」に変更し、保護の万全を図るものである。

飯岡車塚古墳
所在地 京都府京田辺市飯岡西原
【京田辺市ホームページから引用】
飯岡車塚古墳は古墳時代前期の前方後円墳です。
木津川に隣接する独立丘陵の西端に位置し、墳丘は全長90mと市内最大の規模を誇ります。
飯岡車塚古墳は綴喜古墳群を構成する古墳のひとつであり「大王墓の移動にみられる王権中枢の動向が地域首長に及ぼした影響を、ヤマト政権直近の地において明瞭に示しており、当時の政治的、社会的な情勢を考える上で重要」であるとして、墳丘の一部が令和4(2022)年11月に国史跡に指定されました。
古墳は明治35(1902)年に後円部の埋葬施設で発掘調査が行われました。調査では竪穴式石槨を検出し、車輪石や勾玉など多数の石製品が発見されました。その際の発掘調査で出土した遺物は、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)などで所蔵されています。また昭和51(1976)年に古墳の東側で発掘調査が行われ、後円部の墳丘裾部で葺石や楕円筒埴輪を検出しています。
現在は前方部で茶畑が営まれており、飯岡丘陵の独特の景観を作り出しています。
飯岡車塚古墳は京田辺市内最大の前方後円墳であり、墳丘の遺存状態が比較的良好で、市内で数少ない副葬品が判明している古墳として貴重です。

JR学研都市線、近鉄京都線三山木駅の東北約1.3kmのところにあります。
田辺病院のすぐ西側、草内地区と飯岡地区の墓地のすぐ北側の茶畑が前方部、その北方の空き地とその上の林が後円部です。

                      

飯岡地区の墓地には本能寺の変後に堺から本国に戻る途中で土民に殺害された穴山梅雪の墓があります。

    

天理山古墳群
所在地 京都府京田辺市薪山垣外
【京田辺市ホームページから引用】
天理山古墳群は丘陵上に位置する、3基の古墳から構成される古墳時代前期の古墳群です。
綴喜古墳群を構成する古墳のひとつであり「大王墓の移動にみられる王権中枢の動向が地域首長に及ぼした影響を、ヤマト政権直近の地において明瞭に示しており、当時の政治的、社会的な情勢を考える上で重要」であるとして、令和4(2022)年11月に国史跡に指定されました。
周辺はすでに宅地開発が進んでいますが、古墳が所在する丘陵の周辺は里山として、現代まで消滅することなく守られ続けてきました。
近年まで発掘調査が行われていませんでしたが、令和3(2021)年の発掘調査の結果、天理山古墳群は古墳時代前期の限られた時期に、3基もの古墳が連続して作られていたことがわかりました。特に天理山3号墳は全長82mと市内2番目の規模を誇り、この時期に地域の首長(地域のリーダー)がいたことを示しています。
天理山1号墳は丘陵を削り出して古墳の形を作り出しており、少量の埴輪片が出土していることから、部分的に埴輪を配置していたと考えられます。
天理山3号墳は丘陵を削り出した上に、部分的に盛土をしており、その上に葺石や円筒埴輪列で古墳を装飾しています。
天理山4号墳は1号墳と同様、丘陵を削り出して作られており、墳頂からは土器の破片と水銀朱が発見されています。
これらの古墳は、出土遺物から4号墳→1号墳→3号墳の順で作られていると考えられ、徐々に墳丘の大きさが拡大し、古墳の外表施設も発展していくことが分かります。
現在天理山古墳群は未整備であり、急斜面や崖面が点在しているため公開はしていませんが、将来の公開に向けて古墳の発掘や土質、植生などの各種調査を進めています。

酬恩庵の南側の裏山丘陵上にある3基の古墳からなる古墳群です。立ち入りはできませんので周辺の道路から丘陵を撮影しました。

        

大住車塚古墳
所在地 京都府京田辺市大住八王寺
【京田辺市ホームページから引用】
大住車塚古墳は古墳時代前期に造られた全長66mの前方後方墳です。別名チコンジ山(智光寺山)古墳とも呼ばれています。
木津川の西岸のゆるやかに傾斜する標高約30mの水田地帯に立地しています。
昭和49(1974)年に田辺町(現 京田辺市)で初めての国指定史跡として指定されました。その後案内板の設置や墳丘盛土などの整備を行い、現在まで地元住民に愛され続けてきました。
その後、京田辺市から八幡市にかけて広がる古墳時代前期の古墳群が再評価され、大住車塚古墳も綴喜古墳群として令和4(2022)年に新たに指定を受け、「綴喜古墳群 大住車塚古墳」として名称が変更されました。
発掘調査が行われていないため、詳細な内容は確認されていませんが、葺石とみられる石材やわずかに埴輪の破片が採取されています。埋葬施設は竪穴式石槨または粘土槨と推測されています。地形測量の成果や現状の地形から、築造当初は古墳の周りに長方形の周濠があったと推測されます。
また大住車塚古墳の南西には、ほぼ同規模で前方後方墳の大住南塚古墳が立地しています。同規模の前方後方墳が並列する例は全国的に珍しく、当時の社会情勢やこの地域の首長像を考えるにあたって重要です。

JR学研都市線大住駅から北へ向かい、澤井家住宅の前を通って1.2kmです。
既指定だったので周辺がよく整備され、前方後円墳であることが容易に確認できるようになっています。

                                           

八幡西車塚古墳
所在地 京都府八幡市八幡大芝

【八幡市ホームページから引用】

概要
八幡市八幡大芝に所在する。八幡西車塚古墳は、八幡東車塚古墳とともに古くから知られている古墳である。本墳は、男山丘陵端部を切断するかたちで築かれた前方後円墳である。明治35(1902)年に境内の土木工事を行った際、後円部に位置する埋葬施設が破壊されてしまったため、詳細は不明な点が多い。副葬品などの多くの出土品は、東京国立博物館が所蔵している。
明治3(1870)年に、石清水八幡宮境内西部にあった八角堂が後円部墳頂部に移築され現在に至る。前方部は東側先端に鉄塔が建設され、それによって若干の損壊を受けている状態である。令和3年度に行った第6次調査にて、前方部前面は大きく削平を受けていることが判明した。また、後円部規模に対して前方部長が短いことからも、墳裾は削平を受けている可能性がある。
墳丘の形態・外表施設
墳丘長約120m、後円部径約70m、後円部高約8m、前方部幅約60m、前方部高5mの規模をもつ前方後円墳である。墳丘周辺の微地形の様相から、楯形周濠の存在が想定される。
外表施設としては、葺石と埴輪列がある。葺石が斜面の随所に散乱していることから、その存在が想定される。また、埴輪列については、後円部墳頂平坦面の北端で元位置を保った状態の円筒埴輪が2個体認められており、埴輪列が墳頂の端部をめぐっていたことが考えられる。
歴史的価値
八幡市域で最大規模を誇る前方後円墳である。八幡市域の中でも墳丘の損壊が比較的少なく、残存状況は良好な資料である。調査が少ないため、未だ詳細があきらかになっていないことも多いが、墳丘の規模や形態、埋葬施設からは豊かな副葬品の出土がみられることから地域における古墳時代前期の地域支配体制を考える上で貴重な資料である。



男山の南東、松花堂庭園のすぐ北西に位置します。

                          

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