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京都府京都市左京区 安楽寺

Anrakuji ,Sakyoku,Kyoto city,Kyoto

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November 22, 2020 野崎順次 source movie

京都府京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町21
浄土宗
住蓮山 安楽寺


2020年秋の特別公開で本堂や書院、庭園が公開された。

鎌倉時代の初め、現在地より東に約1キロメートルあたりに、法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人の二人が鹿ヶ谷草庵を建てて人々に念仏を布教していた。たまたま、後鳥羽上皇の官女の松虫姫と鈴虫姫が教化を受けて、秘かに出家する出来事があった。上皇の立腹を受け、「専修念仏停止」の宣下によって、両上人は死刑、法然上人は讃岐国(現在の香川県)、親鸞聖人は越後国(現在の新潟県)には配流された。これがいわゆる建永二年(1207)の法難である。
下って室町時代の末、天文年間(1532-1555)に、両上人の供養のため、この地に伽藍が再興されたのが当寺である。
本堂には阿弥陀五尊像を安置し、傍らに住蓮上人・安楽上人と松虫・鈴虫両姫の座像や法然上人張子像などを祀っている。
毎年、七月二十五日に「中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供養」が開催されることでも有名である。
(現地説明板)

パンフレットと現地説明板
   


山門下へ
        


山門
           


くさの地蔵あたり
          


本堂前庭園
             


本堂外部
       


本堂内部
               


本堂と書院の間の中庭
          


書院と書院前庭園
                   


カフェ
    



July 25,2015 中山辰夫

京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21

訪れた日は「中風まじない鹿ケ谷カボチャ供養」が行われていた。

安楽寺は、1207年(建永2)におこった「建永の法難」のきっかけとなった法然の念仏道場「鹿ヶ谷草庵」の後身の寺。

法然上人が流罪を許された後、住蓮・安楽両人の菩提を弔うため東山の一廓に建立したのが【住蓮山安楽寺】である。

安楽・住蓮坊両上人と後鳥羽上皇の女官であった松虫・鈴虫の供養塔があって、今も手厚く供養しており、関連の掛け軸などが寺宝として残されている。

(福永の法難については参考を参照)

参道

    

山門 国登録文化財 1892「明治25」年建立

       

境内

       

住蓮上人・安楽上人供養塔と句碑

   

松虫・鈴虫両姫の供養塔は少し離れた所にある。

本堂 国登録文化財

             

本堂は、常行三昧堂として使われていた方形裳階造の堂宇。天文年間(1532〜55)に建てられたもので江戸時代後期に移築された。

  

虫干しも兼ねて宝物(掛軸)も公開されていた。

書院 国登録文化財

            

数奇屋風の書院は江戸時代末に移築された。

客殿と地蔵堂

    

最近建立された。

安楽寺のカボチャ供養

       

毎年7月25日 「中風まじない鹿ケ谷カボチャ供養」が行われる。当日お参りすると、煮込んだ鹿ヶ谷カボチャが頂け、中風にならないよう祈願してもらえる。

220年続く伝統行事という。

寺伝によると、鹿ヶ谷カボチャは、寛政年間のはじめ(1790年頃)、京都の粟田に住んでいた玉屋藤四郎(たまやとうしろう)が青森県に旅行した際にカボチャの種をお土産に持ち帰り、鹿ヶ谷の庄米兵衛に与え、当地で栽培したところ、突然変異して、ひょうたんの形になったといわれる。

この頃、当寺の住職、真空益随(しんくうえきずい)上人が本堂でご修行中、ご本尊阿弥陀如来から「夏の土用の頃に、当地の鹿ヶ谷カボチャを振る舞えば中風にならない」という霊告を受けられたそうで、以後7月25日を供養日に定め、今日に至っている。

瓢箪型をした鹿ケ谷カボチャは1987(昭和62)年に、『賀茂なす』『聖護院かぶ』『壬生菜』『堀川ごぼう』『九条ねぎ』『すぐき菜』などと一緒に、京都の伝統野菜に指定されている。

書院で頂く。煮つけたカボチャは、ホクホクで甘みのある味付け。参拝客も多く、当日の受付・調理・配膳などは、檀信徒の方々のお手伝いですべて準備される。

頂いた後は、風鈴の音を耳にしながらゆっくり庭を鑑賞したり、虫干しを兼ねて公開された本堂の「安楽寺縁起絵」「剃髪図」「九相図」などの宝物(掛け軸)十数点の秘宝を鑑賞し、説法を聴いて終わる。

≪参考≫

「建永の難」「承元の法難」

鎌倉時代、浄土宗の法然が率いる吉永(きよみず)教団が、天台叡山などの他宗派からの迫害の中で信者を増やしていった。後鳥羽上皇の熊野参詣中に女官、松虫・鈴虫が住蓮房、安楽坊の導きで出家したことで、院の激怒に触れ専修念仏の停止(ちょうじ)と、両上人の死罪、法然と親鸞ら中心門弟7人が流罪に処せられた。

安楽房は六条河原で処刑され、住蓮房は、出身地の馬淵(滋賀県近江八幡市)の池のほとりで斬首された。その池は「首洗いの池」として、今も残っている。

 

「住蓮房母公墓」

京都の三条辺りに住んでいた両人の母親が連れだって、住蓮が斬られる前に逢いたいと京から中山道を歩いて守山まで来た。たまたま馬に乗った侍と出合い馬淵までの距離を尋ねた。侍がその理由を聞くと「私は住蓮房の母で、生ある間に一目逢いたくて急いでいる」との答えに侍はビックリし、「自分がこの太刀で住蓮房を斬ってきた帰り道だ」とはなし、「その奇縁にこの太刀をお渡しする」とおいて立ち去った。悲嘆にくれた母親は焔魔堂の市村家に太刀を託して入水自殺した。

「古老の話」

その後、市村家では、埋葬して墓をつくり、屋敷内に墓石と墓碑を建て、今日までねんごろに回向されている。

   

大宝神社

市村家では住蓮斬首の太刀を所蔵していたが、家に災難が続くことから、1667(延宝5)年大宝神社に奉納した。「縁浅からざるを持って墳墓を保護し香華を捧ぐ・・・」と太刀を蔵した訳を暗示している。(市村家は大宝神社の氏子であった)

701(大宝元)年建立の大宝神社の例大祭で行われる御旅所までの渡御行列では、先頭を大宝神社の社名旗が進み、次に烏帽子雑色姿が赤地の錦の袋に包まれた古太刀を捧げて続いた。 この太刀が住蓮房首討ちの太刀であった。なぜ大礼に加わるようになったか、その経緯は定かでない。現在はイミテーシヨンの太刀を使っている。(宮司)

  

大宝神社の珍しい積雪(平成25年1月2日)

    


December 5,2013 大野木康夫 source movie

所在地 京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21

住連山安楽寺は吉田山の東、鹿ケ谷の山裾にあります。

北には法然院、南には霊鑑寺があり、閑静なところです。

元は法然上人の弟子である住連上人と安楽上人が開いた草庵でしたが、後鳥羽上皇の寵姫であった松虫、鈴虫の姉妹が両上人に帰依し、出家したことで上皇の怒りを買い、両上人は斬首、師の法然上人も讃岐に流されるなど教団の弾圧につながりましました。

後に法然上人が京に帰り、草庵の跡に両上人の法名を付けた寺を開いたのがこの安楽寺です。

毎年紅葉の時期に特別公開されます。

建造物のうち、山門、本堂、書院(客殿)は登録有形文化財となっています。

                                                                 

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