京都府京都市東山区 安養寺
Anyoji,Higashiyamaku,Kyoto city
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京都市東山区八坂鳥居前東入円山町 安養寺宝塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 鎌倉後期 石造宝塔 19600209
March 14, 2020 野崎順次 source movie
京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町624
時宗
慈円山(略して円山) 安養寺
円山公園の一画は、明治政府によって官収された安養寺の元境内で、公園の名称「円山」も安養寺の山号「慈円山」に由来する。吉水草庵とも呼ばれる。
(中略)
寺は総門から続く石段の最上部に本堂、書院、そして歓喜天を祀る堂が集まる。別に総門の南側に境内飛び地があり、慈円が勧請したという弁財天を祀る弁天堂が建つ。「円山の弁天さん」と呼ばれ、祇園花街の人々から技芸上達の信仰を集める。弁天堂の傍らにはこの吉水の地の名前の由来となった「吉水井(よしみずのい)」と呼ばれる涸れた井戸が残されている。かつては慈円が「閼伽(あか)の水」とした名水で、青蓮院の儀式にもこの水を使うしきたりがあった。名匠で知られた三条宗近(粟田口吉光とも)がこの吉水で刀を鍛えたとの伝説も残る。また、弁天堂の背後には高さ3メートルの石造宝塔があり、慈円僧正塔(慈鎮の塔)と伝える。鎌倉期の様式を留めた国指定の重要文化財で、塔身に釈迦如来と多宝如来の両如来を浮き彫りする。
[ウィキペディア「安養寺(京都市東山区)」より]
現地説明板
総門から石段を上る。左右は墓地である。最高所に本堂があり、
阿弥陀石仏 鎌倉時代 総高150cm 像高90cm
寺伝では大日如来と伝えているが、定印(上品上生印)を結んだ阿弥陀仏で、花崗岩製。(中略)全体に保存が良く、端正な面貌をそなえ、髪際の前の線条が強くカーブしているところは、鎌倉時代の仏像に見る特色。写実的で整った体部・衲衣の表現にもこの時代の様式を示す、すぐれた阿弥陀石仏である。また、蓮華座の弁の葺き方も重厚で、丹念な作風を見せる。蓮華座の下に使用された基壇は、この石仏に付属したものではなく、宝塔か宝篋印塔の基礎石であり、そこにきざまれた格狭間の形式は、鎌倉時代の特色を示している。
(清水俊明「京都の石仏」昭和52年より)
吉水弁天堂
国重文 安養寺宝塔 鎌倉時代中期 高244cm 花崗岩
円山公園の奥、吉水弁天堂の背後に立つ。基礎を失い自然石上に塔身以上を据える。塔身は壼形で重厚な曲線を示す。正面に扉を開いた状とし、多宝・釈迦の二仏並座の姿をあらわす。笠の軒が厚く、かつゆるやかな反りに荘重感があり、相輪も素撲な法を示しており、京都附近の鎌倉中期の様式を見ることができる。天台の高僧慈鎮和尚(慈円)が吉水に住んだことは有名であるが、この辺り一帯がもともと天台の勢力圏にあった。法華経見宝塔品所説の二仏並座塔の一つの代表である。京都では大徳寺と清涼寺の両面石仏にも二仏並座塔の半肉彫が見られる。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年より)
帰途、円山公園
帰途、八坂神社摂社、疫神社あたり
帰途、仲源寺
帰途、四条大橋あたり
通称名:吉水草庵、平安時代初期の延暦年間(782〜806)に最澄(伝教大師)が創建。
吉水坊と称し、法然が30数年間ここを本拠に称名念仏を宣揚・親鸞も入信したが、専修念仏弾圧に遭い荒廃。
1385年(至徳2)国阿が入寺、時宗に改めて興隆した。
境内には、もと六阿彌坊(六坊の一つ、重阿彌で赤穂浪士が円山会議を開いた)があって、いずれも林泉の美と眺望に富む楼閣を構え、遊客に席を供して風流行楽の域となった。
しかし、明治維新の際に六坊は廃寺され、また火災にあうなど次第に衰微し、今は門内境内に阿弥陀堂・書院を、飛地の境内(ここから約50メートル南へ下る)には弁天堂、慈鎮和尚多宝塔を残すだけである。
本堂
参道は石段。本堂、庫裏、書院が集まっている。見晴上々。
円山聖天堂
本堂から少し上る。
弁天堂
弁天堂は、慈鎮が叡山から勧請(かんじょう)したものといい、技芸上達の祈願の信仰が厚い。
境内
慈鎮和尚多宝塔
弁天堂の東北隅にある。塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏が並座する鎌倉時代初期の逸品である。
弁財天の左側にある石段をのぼった所に築100年の旅宿がある。
現在の円山公園内になる1886(明治19)年以前、円山に安養寺の塔頭として多蔵庵春阿彌、延寿庵連阿彌、花洛庵重阿彌、多福庵也阿彌、長寿院左阿彌、勝興庵正阿彌、があり「円山の六坊」と呼ばれていた。
塔頭は後に遊覧酒宴の宿となり、僧坊は貸し席、料亭に変わっていった。
重阿彌では、赤穂浪士により、吉良上野介の首を討ち取ることが決定した円山会議が開かれている。
世阿彌は、連阿彌、重阿彌を合併し、京都で始めてのホテル、也阿彌ホテルになった。春阿彌は、1877年に温泉場となり、1906(明治36)年に焼失した。
左阿彌も明治維新以降の御前会議(明治期から太平洋戦争終結時まで国家の緊急な重大事件に際し,天皇の出席のもとに行われた元老,主要閣僚,軍部首脳の合同会議をいい、重要な国策を決めた会議)に使われた。
六阿彌のうち左阿彌のみが今に至るまで料亭として残った。
都名所図会
「円山安養寺(まるやまあんやうじ) は長楽寺の北にあり。これも山門の別院にして、伝教大師の開基なり。本尊の阿弥陀如来は安阿弥の作。
建久年中に慈鎖和尚すみ給ふ。その後時宗と改め、国阿上人住職せり。
こゝに盲人源照といふ者、琵琶の妙曲を奏せしかは天聴に達し、後小松院の恩寵を蒙り、紫衣を賂ふ。これ盲人紫衣の始りといふ。
源照はじめより当山に祈暫し、世に名誉あらん事をねがふ。しかうして顧望成就せしかは当寺の本堂を建立す。
吉水の井は鎮守弁才天の傍にあり。慈鎮和尚この地に住み拾ひしゆゑに宮水和尚といふ。
青蓮院宮御代々の法親王灌頂の時、この水を閼伽とし、夜深更に例式の列を糺し来臨し給ひ、御手づから汲ませらるゝといふ。
当山坊中の書院は昇らずして高楼に至り、清奇典麗いはん方なし。
庭中には石を畳んで飛泉を催し、池を鑿りては舟をうかべ、緑樹芳草、四季に花絶えず、蹴鞠の履の音涼しく、中にも多蔵魔(眼阿弥)の庭は相阿弥の作なり。
多福庵(也阿弥)の書院の画は雪渓の筆なりとぞ。
凡そ洛陽游筵の地多かめれど、この地に勝るゝほなし。 」
A camera
B camera
吉水神社と宝塔
大谷廟
Mar. 2006 source movie
宝塔
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