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京都府京都市下京区 平等寺 因幡堂

Byodoji Inabado,Shimogyoku, Kyoto city,Kyoto

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Jan.2013 中山辰夫

京都市下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728

宗派:真言宗

本尊:薬師如来(国重要文化財)

仏光寺から西南、松原通り烏丸東入ル因幡堂町にあって、周囲は住宅に囲まれている。因幡から飛来した因幡堂の仏像(本尊)が知られている。

創建以来の本尊を現在に迄伝えたのは、周辺に居住した市民たちの信仰と努力によるとことが大きい。

本堂前に置かれている椅子に坐って、ゆっくり時を過ごすお年寄りを多く見かけた。寺院との深いかかわりが感じられる。

当寺は、鎌倉時代の作とされる「因幡堂縁起」(国重要文化財)によると、橘行平が因幡国に国司として赴任中の、997(長徳3)年、かの国で病に

かかったことがあった。彼はその時夢をみて託宣を蒙る。

そして、その言葉のとおりに同国の賀露津(がるのつ)に赴き、海中から等身の薬師如来像を引き上げた。

その後、行平はその薬師像を因幡の地に祀ったまま離任して京都へ帰った。

しかし、1003(長保5)年の事、その薬師像が因幡国から行平邸に飛来したため、行平は驚いて、自ら招き入れ中門に安置した。

その夜、虚空には「高辻烏丸に仏生国薬師如来来し給う。拝見すべし」という声がしたので、京中の貴賎の民衆が行平の邸宅に群参してこれを拝んだという。

その後、行平は、自分の邸宅を堂に改めてこの薬師像を祀ったのが因幡堂の起こりであるという。

このような霊験談で朝野の崇敬あつく、歴代の天皇が代参して祈祷をした。これを薬師詣でと言われた。高倉天皇からは「平等寺」の勅額を賜り

後白河上皇も御幸された。室町時代には七仏薬師の一つに数えられ、一条革堂や六角堂と共に庶民の寺となった。

本堂は宝形型、本瓦葺の大堂で、足利義教の再建とされる。

往時の寺地は、松原通りに南面して広大な地を占め、東西に通用門を構えていた。表門を入ると本堂を中心として、観音堂や大黒堂・阿弥陀堂

虚空蔵堂・金毘羅堂・不動堂・鎮守十九所明神社及び薬王院・桃の坊・柳の坊西の坊など、多くの塔頭子院が周囲を取り囲み、門前には小川が

流れている。この小川は現在、暗渠になっている。

今は本堂一宇を残すのみである。現在の本堂は明治の再建である

本尊薬師如来立像

国重要文化財

平安中期以来、「町衆」がこの仏像を祀り、守り続けてきた。

一木彫成(いちぼくちょうせい)の等身像で、度重なる火災にもかかわらず、その都度難を逃れ、よく今日まで保存されている。

嵯峨清凉寺の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来に一つに数えられる。「絵葉書より」

現在の薬師如来立像が納められている厨子の背後には、滑車が取り付けられ、縄が通をされている。これは火災などの緊急時に像をすぐに持ち

出せるようにしたためである。

「堂]について

平安京内にはかつて、東寺、西寺の官寺を除いて、私寺を建立することが許されなかった。ところが、京内に住む多くの一般的な都市住民は、霊験とか

夢のお告げと称して京内に新しく仏を祀った。そうした宗教施設を「堂」や「小霊験所]などと呼んだ。これらの堂は、寺号を持たず、寺院の扱いを受けない

「堂」として京内にあることがゆるされた。

室町時代なると、京内で自治的な組織を持ちはじめたいわゆる「町衆」の集合する場所となり、「町堂」と呼ばれるようになった。因幡堂は、そうした町堂の

代表格である。堂の近くに居住した住民は、商業や交易で次第に富を蓄え始めた新興勢力であった。そうした彼らが現生的な財力と健康を祈る仏として

祀った。

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