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京都府京都市左京区 知恩寺

Chionji, Sakyoku, Kyoto city,Kyoto

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November 5, 2016 大野木康夫 source movie

所在地 京都府京都市左京区田中門前町103

知恩寺は,百萬遍として知られる浄土宗大本山寺院である。

承安5年(1175)頃の宗祖法然による創始以来,3度の寺地移転を経て,寛文年間(1661-72)初期に現在地に境内を構えた。

中心となる御影堂は,浄土宗寺院仏堂の基本的平面を採り,禅宗様を色濃く取り入れた外観と,広壮こうそうな内部空間を併せ持つ堂である。

御影堂の周囲には釈迦堂や阿弥陀堂,勢至堂,鎮守堂,総門などの堂宇が配置されて荘重な境内を形成しており,近世浄土宗寺院伽藍の特徴を理解する上で,高い価値を有している。

(文化審議会答申概要)

知恩寺は、百萬遍の名で広く知られる寺院で、東大路の東、今出川通りに南面して寺地を占めている。浄土宗四箇本山の一つに列し、正式には長徳山功徳院知恩寺と号する。

加茂神社の神宮寺である加茂の河原屋を前身とし、ここに法然が止住したのち、弟子の源智が改宗、浄土宗寺院として寺基を整えた。以後、民衆の信仰を集める洛中有数の寺院へと発展し、上杉本など中世洛中洛外図にもその賑わいが描かれている。寺地は創建後、洛内を点々とし、寛文元年(1661)に御所の東で類焼した後、現在地に移った。

今出川通に面して総門、東大路に西門を開く。総門の北奥に御影堂を構え、その間の東側に釈迦堂をたて、西側に阿弥陀堂、鐘楼、鎮守堂を配する。御影堂の後方には大方丈をはじめ、小方丈、書院、庫裏、玄関など本坊の諸建物が廊下を介して続いている。本坊の東方には墓地が広がり、南側の墓門正面に勢至堂、墓地中央の奥まった所に御廟所を設ける。本坊の建物が明治に改修されたが、その他の建物は江戸時代に建立されたままであり、近世伽藍景観をよく伝えている。

(「京都の文化財 第13集」)

知恩寺は東大路通と今出川通の交差点の北西にある浄土宗の大本山です。

寺の通称は「百万遍」で、その交差点の通称も「百万遍」です。

京都大学吉田キャンパスと今出川通を挟んで北側、京阪電車出町柳駅から徒歩10分くらいです。

平成28年10月21日の文化審議会から、御影堂など9棟を重要文化財に指定するよう答申されました。

総門(京都府指定文化財、指定答申対象)

17世紀の建築

四脚門、切妻造、本瓦葺

総門は比較的規模の大きな四脚門で、太い軸部をもち、簡素ながらも力感に充ちた建築である。寛文の寺地移転に際して移建されたと伝えるが、様式的にそれほど遡るとみられず、十七世紀前〜中期の建立と考えられる。

(「京都の文化財 第13集」)

今出川通に面した門で、御影堂の正面に位置します。

                

細部など

                 

阿弥陀堂(京都府指定文化財、指定答申対象)

天保2(1831)年の建築

桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、桟瓦葺

阿弥陀堂は、御影堂の西南に東向きにたっている。文政11年(1828)に旧堂を焼失したために再建に取りかかり、天保2年(1831)に上棟した。釈迦堂と同様に、禅宗様仏殿の形態を受け継いだ建築であるが、礼拝の形態に合わせて身舎内に畳床を設ける一方、軒まわりやもこしの繋ぎ、天井などに簡略化が進んでいる。大工は、御影堂と釈迦堂が、建仁寺大工の坂上家であるのに対し、阿弥陀堂は河合宗兵衛が当たっており、手法の違いはそのあたりにも原因があるのかもしれない。

(「京都の文化財 第13集」)

総門を入って左側(西側)に位置しています。

そういえば総本山知恩院も御影堂の西側に阿弥陀堂がある配置になっています。

                       

細部など

                 

西門(京都府指定文化財の附指定、指定答申対象)

高麗門、本瓦葺

東大路通(西側)に面する門です。

釈迦堂(本堂)の正面に位置します。

附指定であったため建築年代がわかりませんでした。

         

細部など

          

鐘楼(京都府指定文化財の附指定、指定答申対象)

桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺

御影堂の左手前(南西)、西門から入って左手に位置します。

西門と同じく、附指定であるため建築年代がわかりませんでした。

              

細部など

                 

釈迦堂(京都府指定文化財、指定答申対象)

寛文4(1664)年の建築

桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺

釈迦堂は御影堂の東南に西面してたっている。本尊釈迦如来は賀茂河原屋以来の寺の本尊であり、これを安置していることから本堂とも呼称される。寺地移転後、最初に建立された仏堂で、その年代は寛文4年(1664)である。基壇上にたつ桁行五間、梁行五間の建築で、内部は、中央方三間の身舎に周囲一間通の化粧屋根裏のもこしがまわる。身舎の背面中央一間に来迎壁を設け、その前に須弥壇を置き、本尊を祀り、背面壁に接して両脇に脇壇を設ける。床は全面瓦四半敷で、天井は中央方三間が鏡天井、周囲が化粧屋根裏である。軒まわりの組物や垂木は和様であるが、内部の空間は一重もこし付の禅宗様仏殿を強く意識した建築といえる。中世京都においては、知恩寺をはじめ知恩院や浄福寺など、浄土宗寺院の中心堂宇では禅宗様仏殿の形式が採用されていたと考えられる。しかし、近世に入ると、御影堂のような形式の仏堂が中心堂宇として採用され、禅宗様仏殿風の仏堂は急激に数を減らし、ほとんど建てられなくなる。そのような中にあって、当堂は中世京都における浄土宗の中心堂宇の面影を残しており、貴重な存在といえる。

(「京都の文化財 第13集」)

                                             

細部など

                              

勢至堂(京都府指定文化財の附指定、指定答申対象)

桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、本瓦葺

釈迦堂の北、御影堂の東に位置しています。

                           

細部

          

御影堂(京都府指定文化財、指定答申対象)

宝暦6(1756)年の建築

桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、向拝正背面三間、本瓦葺

御影堂は法然の御影を祀る堂宇で、実長で桁行29メートル余、梁行25メートル余に及ぶ。七間堂としては最大で、浄土宗では十一間堂の知恩院御影堂に次ぐ規模を有している。軸太で力強い柱上に、禅宗様三手先を詰組に組み、扇垂木の深い軒を撥ね出し、本瓦葺の重厚な屋根をのせる。気宇壮大な近世仏堂の風格をみせている。さらに、細部様式には禅宗様を巧みに用い、構造的で上昇感のある律動的なデザインでまとめあげられている。その外観に対し、内部は近世浄土宗らしく畳敷で、天井には格天井や棹縁天井を張り、落ち着きのある静的な空間となっており、鮮やかな対照をみせる。

平面は、正面奥行二間の外陣と、その奥五間の内陣からなる。内陣内の両脇一間通は脇陣で、その後寄り一間を間仕切り、部屋とする。この脇陣の部屋は、中世密教本堂にみられる承仕部屋や堂蔵の名残と考えられる。内々陣は、中央後方に四天柱を立て、須弥壇を構え、宮殿をのせる。来迎柱筋より後方一間通りが後戸で、両脇に脇壇が置かれている。このような平面形態は浄土宗系の大規模仏堂において典型的なものである。内・外陣境は両端妻戸であるが、中央五間は蔀羽目だけで揚げ蔀が省略されており、内・外陣境は時代相応に簡略化されている。その上方には彩色された花鳥の優美な欄間が置かれ、堂内を飾っている。

御影堂は延享3年(1746)に奉行所の許可を得て、翌年に釿始を行い、宝暦6年(1756)頃に竣工したと考えられる。その再建に際しての棟札や祈祷札が小屋裏に多く保存されている。大棟に最も重要な棟札を取付け、次に重要なものを四天柱上に打ち付ける。さらに周囲の側柱上あたりに、祈祷文や寄進者、関係者を記した二十数枚の札を打ち付けている。このような例は、現在のところ他では確認されていない。これらは、普請の経緯や関係者がわかる史料として重要であるとともに、その配置や内容から近世において堂を守護するために、棟札や祈祷札にどのような役割を期待したかを推測でき、民族的な史料としても貴重なものである。

当堂は、近世浄土宗の大型仏堂として完成された空間をもつ堂宇であるとともに、禅宗様を大胆に導入した卓越した意匠をもつ。規模雄大にして、完成された構造であり、その雄壮な意匠は他に例をみず、近世建築の白眉といえよう。

(「京都の文化財 第13集」)

雄大な仏堂です。

                                          

細部など

                                                     

御廟所(京都府指定文化財、指定答申対象)

江戸中期の建築

御本廟、廟門、十一重石塔、十三重石塔、石橋よりなる

御本廟 桁行一間、梁間一間、一重、宝形造、本瓦葺

廟門 石造

十一重石塔 石造十一重塔、相輪を欠く

十三重石塔 石造十三重塔、相輪を欠く

石橋 石造桁橋、勾欄付

御廟所は、法然ほか歴代の卵塔を安置する場所で、墓地の中央奥に位置する。正面に、鳥居風の形をもつ廟門を設け、その両脇に十一重石塔と十三重石塔をたてる。廟門の後の石橋を渡った、正面奥に開山法然と二祖源智の卵塔を安置する御本廟があり、その両脇に歴代墓が南北に並んでいる。御本廟は、基壇上にたつ方一間宝形造の建築で、バランスよく上品にまとめられた優美な建築である。寛文年間の再建と伝え、様式的にも十七世紀後半のものと判断できる。法然廟は、知恩院や粟生光明寺などに残り、いずれも、境内最奥の閑静な所に位置し、法然の塔などを安置する点で共通する。しかし、知恩院や粟生光明寺は拝所など礼拝の施設を設けるのに対し、知恩寺では拝所を設けず、歴代墓を周囲に配して、墓地の空間としてまとめており、特徴的である。

(「京都の文化財 第13集」)

御影堂背後の本坊東側を北に向かえば墓地が広がり、その中央奥(北側)に位置しています。

 

廟門、石塔、石橋

             

御本廟

                                              

細部など

                  

鎮守堂(京都府指定文化財の附指定、指定答申対象)

一間社流造、本瓦葺

御影堂の南西、鐘楼のすぐ北に位置しています。

                                

細部など

                          

後西天皇の皇子、皇女の陵墓

左から皇子凉月院、皇女萬宮、皇女香久宮の墓、大きな宝篋印塔は後西天皇後宮六条局梅小路定子の墓

      

境内風景

         

毎月十五日の手作り市の日には大変賑わいます。

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