京都府京都市北区 船岡山
Funaokayama,Kitaku,Kyoto City,Kyoto
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平安京造営基点の磐座、応仁の乱戦跡(西陣) | |
Nature |
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Culture | 建勲神社 | |
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February 3 and 9, 2021 野崎順次 source movie
京都市北区紫野北舟岡町 船岡山
国史跡
船岡山は標高112メートル(比高45メートル)、周囲1300メートル、面積2万5千坪の優美な小山であり、その東南側は建勲神社境内で特にうっそうとした森に被われている。豊臣秀吉の頃より信長公の霊地として自然がそのまま残され、京都盆地特有の樹相が良く保たれている。樹種が極めて多く、帰化植物がほとんど入りこんでいない京都市内で数少ない貴重な森とされている。
船岡山は聖徳太子の文献にもその名が出ており、又、1200年前、京都に都が定められた時、中国の陰陽五行思想、風水思想に基づいて、龍気みなぎる地形であり、大地の気がほとばしり、溢れ出る玄武の小山であると、卜せられ、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路となった。今も神社境内の船岡妙見社に玄武大神が祀られている。
(中略)
戦国時代の応仁の大乱(1467~1477年)の際、この船岡山が西軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれている。また永正8年(1511)の足利将軍家及び細川家の内紛の際にも、船岡山に陣地が置かれた。
船岡山は、昭和6年(1931)に京都市風致地区に、昭和43年(1968)に国の史跡に、平成7年(1995)に京都府の『京都の自然200選』に指定されている。
(建勲神社ウェブサイトより)
(1)頂上と磐座
南からのアプローチ、船岡温泉の建物は国登録有形文化財
建勲神社には入らずに西の山頂へ
磐座は山頂の南端に位置する。北側から見ると、1.5メートルほどの高さでしかないが、南側にまわると崖になっており、巨大な岸壁が立ちはだかるように追ってくる。高さは5メートルほどか。そのごつごつとした岩肌と、覆いかぶさるような威在感に圧倒される。古来より「修法の場」として記録に残る山だが、遷都以前からの聖地だったのか。それとも、秦氏が祀る磐座であったのか。どちらにしても、この岩壁の前で祭祀が行われていたにちがいない。盆地の北域に浮かぶ「蓬莱島」のような存在と、頂上に鎮座する磐座が、秦氏の力とともに、新京選定に大きな意味をもったと思われる。
(池田清隆『磐座百選 - 日本人の「岩石崇拝」再発見の旅』2018.01.25. 出窓社)
山頂の公園と眺望、三角点の横にサイレン塔
来た道を戻る、石仏、石塔、旧国旗掲揚台、南側の眺望
(2)建勲神社
建勲神社は、明治2年(1869)、明治天皇の御下命により創建された神社で、織田信長公をお祀りしています。
明治8年(1875)に別格官幣社に列せられ、京都の船岡山に社地を賜りました。明治13年(1880)、新たに社殿を造営し、御嫡子織田信忠卿を配祀し、明治43年(1910)に山麓から山頂へ社殿を移建し現在に至っています。
船岡山は玄武の小山として平安京造営の際に北の基点になったとされる小高い丘で、緑豊かな建勲神社の境内からは比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)など東山三十六峰の眺望も楽しめます。
正式には「たけいさおじんじゃ」といいますが、一般には「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」として親しまれています。
(建勲神社公式ウェブサイトより)
パンフレットと現地説明板
南参道、船岡妙見社、東側の眺望
東から、
国登文 貴賓館、国登文 社務所
国登文 祭器庫
国登文 手水舎
国登文 拝殿
国登文 神門、国登文 本殿、国登文 祝詞舎、国登文 渡廊、国登文 透塀
国登文 神饌所
東側を下って、大平和敬神 神石
末社 義照稲荷神社および伏見稲荷大社命婦社
国登文 大鳥居
(3)船岡山公園
北大路通の船岡山バス停から南へ、西への坂を上ると、応仁永正戦跡の碑がある。
広場、旧ラジオ塔、野外演奏場
あずまやから石碑、面白い石だなあと前に回ると、昭和十二年公爵近衛文麿書の「記念」碑
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