京都府伏見区 伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)
(Fushimi Momoyama Imperial Mausoleum, Fushmi-ku, Kyoto City)
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July. 2011 野崎順次source movie
京都府京都市伏見区桃山町古城山
撮影日: 2011年7月23日
明治45年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪の礼が執り行なわれた後、9月14日に埋葬された。敷地は豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるものという。
古式(天智天皇陵)に範を採ったとされる上円下方墳で、墳丘にはさざれ石が葺かれている。下段の方形の一辺約60メートル、上円の高さ6.3メートル。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨を納めた。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めた。幕末の孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻した。
すぐ東には昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接する。同じく上円下方墳である。
JR桃山駅から少し北に戻って踏切を渡り、東に直進すると参道である。杉並木が荘厳である。
このあたりは秀吉が築いた伏見城跡で石垣の石材が残る。
なだらかな登り坂である。
伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)
明治天皇(第122代天皇)(1852年生〜1912年没)
名は睦仁(むつひと)。その功績から、「明治大帝」、「明治聖帝」とも呼ばれる。
近代天皇制が確立した時期の天皇である。在位は1867年(慶応3年) - 1912年(明治45年)。大政奉還、王政復古と戊辰戦争明治維新、日清戦争、日露戦争などを経験し、明治新政府の最高権力者として祭り上げられた。明治天皇の在位期間を「明治時代」と呼ぶ。
御陵の西側は展望がよく、急傾斜の大石段がある。トレーニングする人が多い。
すこし南に下る。
伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)
皇后昭憲皇太后(第122代皇太后)(1849年生〜1914年没)
旧名:一条 美子(いちじょう はるこ)、明治天皇の皇后大正天皇の「嫡母」となる。病弱で実子はなかった。維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、学習院女子部の前身である華族女学校や、お茶の水の東京女子師範学校(現お茶の水女子大)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。また、生涯に三万首を超える和歌を詠み、その一部が『昭憲皇太后御集』として伝わる。崩御に際して「ロンドンタイムズ」は彼女を高く評価した。
曲がり道を下ると、大石段の下に出る。
石段は全部で230段。23段ずつの石段が10階に区切られ、23段の石段は明治23年を意味し、10階の区切りは10月を示し、さらに最後の23段と御陵の前にある7段の石段を加えた30段は30日を示す。これは明治23年10月30日の教育勅語発布の日を意味しているとのこと。
乃木神社への道端の花。
参考資料
宮内庁HP
ウィキペディア「伏見桃山陵」
MILabo HP
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