京都府京都市左京区 慈照寺 銀閣
Jishoji Ginkaku,Sakyoku,Kyoto city,Kyoto
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京都市左京区銀閣寺町2 慈照寺東求堂 国宝 近世以前/住宅 室町後期 文明17(1485) 桁行6.9m、梁間6.9m、一重、入母屋造、檜皮葺 棟札1枚 19030415 19510609
Nov.17,2020 瀧山幸伸
A Camera
B camera
May 31,2020 大野木康夫
source movie
緊急事態宣言解除直後でまだ参観を中止している寺院も多い中、慈照寺に行きました。
いつもは満員に近い市バスも、全員が座れるくらいでした。
参道の店も半分くらいは閉まったままで、拝観者は非常に少なかったです。
静かな参道
門前
銀閣寺垣を無人の状態で撮影したのは初めてです。
銀閣
本堂前のつくばいにもう一人の拝観者が座っているだけだったので、銀沙灘越しに銀閣を眺めて人が目に入らない状況です。
東求堂
庭園
庭園と東求堂
東側から見た東求堂
池越しの銀閣
庭園内の滝
梅雨時で苔の緑が美しい
出口付近、銀閣と青もみじ
再び銀閣寺垣
帰路
May 5, 2019 野崎順次 source movie
京都府京都市左京区銀閣寺町2
臨済宗相国寺派
東山 慈照寺
「慈照寺(銀閣寺)庭園」は特別史跡・特別名勝に指定されている。別件で史跡に指定されている「慈照寺(銀閣寺)旧境内 」は、より広く、北側の浄土院の境内も指定対象に含まれる。
アプローチ
総門から中門
慈照寺(銀閣)庭園 室町時代 池泉回遊式別に砂盛
今本庭を一覧すると、東求堂の前の池庭には中島があり、石橋三橋が架けられ、石組は蓬莱式の三尊石組で、よく室町期の手法を見せている。全庭三千百七十坪で、池泉は西に延びてまた中島一島があり、中央に出島と、この中島に各々石橋一橋がある。
そして今の方丈前に銀沙灘と、向月台という砂盛りがあり、はなはだ抽象的であるが、本庭は、その頃山水画の理想であった瀟湘八景の意をとった庭であるから、白砂盛は洞庭の秋月と平沙落雁であろう。このように考えると、池庭は遠浦の帰帆であり、東山は江天の暮雪であり、東求堂は山市の晴風であり、銀閣は遠寺の晩鐘にあたり入口付近は漁村の夕照かもしれない。
いずれにしても義政が理想としていた世界であり、東山時代の詩境であった。日録に、
実天下奇観也
とあるように、傑出した庭が大体に完成したのであった。
(重森三玲「日本庭園便覧辞典、昭和49年」慈照寺(銀閣)庭園より)
銀閣(観音殿)、仙人洲、向月台、銀沙灘
東求堂、白鶴島、錦鏡池
高台に上る。お茶の井、漱蘇亭跡、展望所
銀閣(観音殿)に下る。
帰途
Nov.12,2017 瀧山幸伸
参拝者のかなりの部分は外国人観光客でした。
July 27, 2014 野崎順次 source movie
京都府京都市左京区
銀閣寺あたりの外人観光客
(Overseas Tourists around Ginkakuji Temple, Sakyo-ku, Kyoto City, Kyoto Pref.)
今年は京都を訪れる外国人観光客が急増しているそうである。真夏の京都に外人観察に出かけた。銀閣寺の参道を歩く観光客の3分の2から4分の3が外国人である。日本人は京都特有の猛暑にたじろいでいるのだろう。
雪の日でしたが、午後になると雪も溶け、屋根や枝先に残るばかりとなっていました。
参道
銀閣
東求堂
帰路
宗派:臨済宗相国寺派
本尊:釈迦牟尼仏
1490(延徳2)年足利義政公薨去後遺命により義政公の法名に因んで慈照寺と改め,臨済禅宗の寺となった。それまではここを
東山殿と称していた。一般に銀閣寺というのは通称で、寺の本名は慈照寺である。銀閣という名称は、江戸時代以降に使われだした。
都名所図会
銀閣寺は大文字の名で有名な如意ケ嶽の西麓にある禅寺である。中門をくぐった左側に庫裏があり、その隣に釈迦牟尼仏を安置する
本堂があり、その東側が東求堂である。
この寺の中心は本堂の南に広がった庭の西端に建つ銀閣の異名で有名な観音堂である。
実はここは、はじめ寺として建てられたのでなく、足利将軍八代義政が義満の金閣寺と対抗して晩年に建てた東山山荘の跡である。
それを死後寺としたのである。従い、義政の菩提寺である。ここは義政という人物の信仰の内的世界ともいえる。
豪奢・華麗な雰囲気を持つ金閣寺に対し、銀閣は、清楚・廉潔で静穏な雰囲気をもつといわわれる。一万㎡の境内は清閑である。
参道風景
結構な人出である
境内案内図
総門付近
蟹真黒の石畳である。緩やかな上り坂。
銀閣寺垣
総門から中門までの約50mの参道両側に、銀閣寺垣と呼ばれる竹垣と整然と刈込まれた椿と樫の木の生垣が続く。
右手生垣は二段となっている。参道一帯に、厳粛な雰囲気と静けさを保つ役目をしている。
中門
薬医門。江戸時代:寛永年間(1624〜44)の建立。こけら葺 2004年改築
瓦は、足利家の家紋「二引両」丸瓦の東慈とは「東山慈照寺」の意。
庫裏と前庭付近
庫裏は江戸時代:1837建立 庫裏前の白砂
唐門・宝処関
庭園の入り口に「宝処関」という扁額を掲げた唐門があり、そこに入るとすぐ正面に花頭窓を通して庭園が見える。
八幡神
唐門を入ったすぐ左手にある小祠。『雍州府志』に「八幡をもつて鎮守とす」とあり、『山州名跡志』には「鎮守の宮、今猶存す。方丈の東南向に有。鳥居南向
木柱。祭る所八幡。同所左の傍に小祠有。祭る所天神」とある。『都名所図会』は護国廟という。なお江戸期と異なり、現在の鳥居は石柱である。
銀閣(観音堂)
国宝
全景
重層宝形造・こけら葺の楼閣
金銅の鳳凰
東向き、観音菩薩を守護している。1万円札の裏面の鳳凰は宇治の平等院のものとされる。銀閣寺の鳳凰とよく似ている。
上層
仏殿の上層(潮音閣 観音像を安置する)は、桟唐戸、花頭窓、頭貫、垂木の木鼻繰形や如意頭文飾りなどの禅宗の仏壇形式からなる。
代々の室町将軍は、その邸宅内に観音殿を造るのが常となっていた。あって当然のもので、その為、銀箔を貼る必要はなかったとされる。
下層
住宅様式の下層(心空殿 千体地蔵尊を安置する)は和様の書院造りである。
月待山
向月台・銀沙灘
富士形の白砂盛。高さは180cm、義政公の月見台の跡とされる。
白砂を円錐状に盛り上げ、頂部をならしている。
向月台の土に座って、東山に昇る月を眺めたとされるが、現在の形になったのは江戸後期になってからである。
盛られた時期は江戸時代後期。1780(安永9)年の『都名所図会』と1799(寛政11)年(1799)の『都林泉名勝図会』には両方とも見られるが高さは異なる。
簡単境内図
本堂(方丈)
慈照寺の本堂となる建物で、江戸時代初期、寛永年間(1624〜44)の建築といわれる。本尊釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を安置する。
内部には江戸時代の俳人・画家・与謝蕪村(1716〜83)と画家・池大雅(いけのたいが,1723〜76)の共作による襖絵があり、京都市指定文化財となっている。
銀沙灘
方丈前の盛砂をいう。 高さは65cm 形を支那の西湖になぞらえ、砂上の筋は波の趣をあらわすとされる。
月がこの砂盛に反射して夜の庭を明るく浮かび上がらせるとされる。
銀沙灘は白砂を壇状につくり、表面に直線の縞模様を付けている。
設えられた時期は、江戸時代後期。享保20年(1735)の『築山庭造伝』にはなく、安永9年(1780)の『都名所図会』と寛政11年(1799)の『都林泉名勝図会』
には見られるが、銀沙灘の形状が異なるなどの差異がある。『都名所図会』によると、落月を惜しむために設えられたという。
銀閣寺形手水鉢
方丈と東求堂をつなぐ廊下の傍らにある。この手水鉢は花崗岩で角形、江戸期の作である。四面とも違った格子縞のような線刻がある。
袈裟型とも称されるのは、僧侶の袈裟の文様に似ているから。
東求堂
国宝
義政の持仏堂で、義政公法体の木造を安置する。東山殿創建当初より存在していた。
書院造の原型ともいわれ一重の入母屋造・檜皮葺の単層建築。昭和39〜40年の修理以前はこけら葺きだった。
内部は四畳・四畳半・六条の小間・仏間からなる。仏間は花狭間桟唐戸である。
東北の四畳半の間は同仁斉とよばれ、いわゆる四畳半の濫觴をなすもので、机の役割を担う一間の付書院(つけしょいん)と物を収納する半間の違棚
が北側に設けられている。後世茶室の模範となっている。
義政はこの持仏堂を東山殿の中心と考えていたようで、その造営にあたっては苔寺(西芳寺)の本堂西来庵を模範とした。
本堂と東求堂
庭園
義政は、錦境池をはじめとする庭園を当時作庭の名手といわれた同朋衆の善阿弥に作らせた。庭園は、西芳寺を範としており、上下二段の庭からなる。
錦鏡池と龍背橋(下段の庭)
下段の庭は錦鏡池を主体とする池泉回遊式の庭園。池を東西の二つに分ち、池中に中島をつくり、石橋をかけ、池畔には作庭に協力した守護大名たち
の名を付けた大小さまざまの石が立てられた。
錦境池は西芳寺の黄金池に、龍背橋は邀月橋にそれぞれ相当する。龍背橋は東求堂の南にあり錦境池を二つに分ける石橋。
東求堂に面した池
池には細川・畠山・山名の管領職や諸大名が献上した数々の名石がある。現在駒札で示されているのは、座殿石、大内石、浮石などである。
銀閣に面した池
下段の庭園さまざま
池をめぐらした浄土式庭園である。
千代の槇 樹齢500年の大木
洗月泉
苔むした滝の石組の間から清冽な清水が流れ落ちている。水面に映る月をさざなみで洗うといわれる。
流れ
コケ
垣
上段の庭園から展望台へ
結構な勾配のある石段道や地道が続く。目に入る苔が美しい。
上段の庭園
上段は禅宗の庭でよく見られる枯山水様式。相阿弥が築造する漱蘚亭「操船亭」一帯の庭園跡。
上段の庭は昭和6年に発掘された庭園で、山裾の東北隅にお茶の水という湧水の石組がある。
お茶の井
駒札に「義政愛用のお茶の井跡。水量も豊で、現在もお茶会等の飲料水として使用されている。泉辺の石組は、当時の遺構そのままであり、茶庭の蹲(つくばい)手水鉢前の源流とされる」とある。
駒札に「義政愛用のお茶の井跡。水量も豊で、現在もお茶会等の飲料水として使用されている。泉辺の石組は、当時の遺構そのままであり、茶庭の蹲(つくばい)手水鉢前の源流とされる」とある。
展望台への道
売店付近
創建時の銀閣彩色の復元
売店横に展示あり
訪問日:2011.05.25
Jan.2011 撮影:大野木康夫 source movie
所在地 京都府京都市左京区銀閣寺町2
雪の元日、法然院から慈照寺に向かいました。
開門の10分前に門前に到着しました。
すでに10人ほどが並んでおり、開門までに30人ほどになりました。
参道の除雪が行われていました。
9時に開門し、銀閣寺垣に囲まれた参道を進みました。垣の隙間から覗く竹林が雪に映えて鮮やかでした。
銀閣(国宝)
長享3(1489)年の建築
東面及び西面8.2m、北面7.90m、南面5.9m、二重、宝形造、こけら葺
足利義政が自らの山荘・東山殿として建設したもの。敷地内には会所、常御殿に加え観音殿、東求堂(銀閣)などが設けられていたが、義政の死後慈照寺となった後、観音殿、東求堂以外は失われた。
一階を書院造の要素の濃い住宅風、二階を禅宗様を基調とした仏殿風にしつらえる。金閣とならぶ楼閣建築の双璧。
(国指定文化財等データベースより)
東求堂(国宝)
文明17(1485)年の建築
桁行6.9m、梁間6.9m、一重、入母屋造、檜皮葺
2009年にこけら葺の屋根を修理しており、まだ少し壁面の黒さと調和していない状態ですが、この日は雪が降り積もり、美しかったです。
積雪のため、展望台に上ることはできませんでした。
門前では除雪が行われていました。
銀閣寺参道のツバメの巣、いたるところにありました。
祇園さんのお守りです。
No.1 Mar. 2006 source movie
東求堂
銀閣
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