京都市上京区 京都御所・御苑
Kyoto Gosho/Gyoen Kamigyoku,Kyoto
御所
京都市街のほぼ中央に位置し、東西約700m、南北約1,300mと広大な敷地を有する。
京都御所は、桓武天皇により都が京都に遷った794年(延暦13年)に造営された大内裏(宮城)である。
平安京の内裏は960年に焼失して以来、災害時は一時的に京中の公卿邸を借用するようになった。これを「里内裏」といい
現在の御所は里内裏の1つ「土御門東洞院殿」の後身となっている。
戦乱や火災によって荒廃した大内裏に代わって、事実上の内裏として機能している。
京都御苑の中に、天皇が住まいになっていた「京都御所」がある。
「京都御所」の周りには塀がめぐらされ、六つの門で外につながっている。
南側の「建礼門(けんれいもん)」から時計回りに進むと、西側には「宜秋門(ぎしゅうもん)」、「清所門(せいしょもん)」、「皇后門(こうごうもん)」
北側に「朔平門(せっぺいもん)」、東側には「建春門(けんしゅんもん)」の順に並んでいる。
建礼門(けんれいもん)
御所正面入口の正門。
素木、切妻造、桧皮葺(ひわだぶき)、柱間1間の四脚門である。
屋根は、檜皮葺で軒下の金色の建具や透かし彫りが施されており、気品あふれる厳かな門。
開門されるのは天皇や国賓の来場や一般公開など、特別な行事の時のみである。
左右の築地塀(ついじべい)には5本の筋(水平の線)が入っているが、これも塀として最高の格式を示すものである。
この門を入り丹塗り瓦葺の承明門(じょうめいもん)を潜ると正面が紫宸殿である。門の奥に僅か見える。
遠景・他
宣秋門(ぎしゅうもん)
西側の一番南にあるのが、この宜秋門。葵祭りはここから出発する。
桧皮葺き、切妻屋根の四脚門。唐門ともいわれ、宮、摂家、親王、門跡、公家等が参内する際に用いた
春・秋の特別公開時の入り口となる
門越しに見える紫宸殿の屋根
清所門
宣秋門の来た100mの所にある門。瓦葺一般公開時の入口、特別公開時は出口となる。
御所の勝手口といえる門。皇子女の参内初めに用いられた。御台所御門ともいわれる。
皇宮警察本部に所属する皇宮護衛官というおまわりさんが、詰所の外で、一年中24時間、立ち番で警護しておられる。ご苦労さん。
皇后門
清所門から更に北へ歩くと、皇后門がある。御門は瓦葺き
ちなみに、築地の瓦に菊の紋章が焼き込まれている。
朔平門(せっぺいもん)
京都御所の北側中央にあるのが御門。檜皮葺である。南の建礼門とは対峙している。
建春門(けんしゅんもん)
京都御所の東側にあるのが、この建春門。向唐破風の屋根を持つ四脚門
東側の築地の南寄りにある。唐破風の屋根をもつ四脚門である。
また外国の首相にも用いられる。
勅使の出入りに用いられたが、明治以来は皇后陛下や皇太子殿下の御門とされ、また外国の首相にも用いられる。
穴門
数多く設けられている。不浄門。
清水谷家の椋(むく)
御所
名残りの紅葉
12月2日に散策する。木々の紅葉は盛りを過ぎていた。
御所の内外の路面は、色とりどりの落葉で覆われている。
御所内には燃え尽きた木々も点在する。今なお残った力で廻りを輝かせている木々も多い。
年内の全ての行事を終えた御所周辺は、人気も少なく、一休みしている感じで静かだった。
凝華洞跡のイチョウ
(説明板)
凝華洞跡
江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。一八六四(元治元)年禁門の変の頃
京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。
丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、大正大礼前の改良で池は埋められ
灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。
このイチョウの大木と対峙して、樹の言葉を聞く人が多いと聞く。御所には各所にパワースポットがあり、その一か所である。
散策の途中、時折雨が落ちてきて、木々を濡す。そこに陽射しが当たりその反射が美しい
陽に映える黄葉
京都御苑
京都御苑は、京都御所、仙洞御所を囲む面積約63haの公園。東西約700m、南北1300mの広大な敷地は、明治初期に皇宮付属地として
整備され、戦後になって国民公園として開放された。
江戸時代には200もの宮家や公家の屋敷が建ち並んでいた。石垣に囲まれた公園になったのは明治時代になってからである。
現在では、平安時代から幕末までの史跡は勿論、樹木5万本が育ち、様々な野鳥や草花、キノコなどを見ることができる自然豊かな憩いの場
である。(説明:御苑管理事務所)
今回は、下記の案内図の下線部、堺町御門〜九條池〜拾翆亭〜厳島神社〜宗像神社〜閑院宮邸跡をたどる。
1864(元治元)年、京の街を火の海にした蛤御門の変(禁門の変)は、蛤御門から起こった。
蛤御門
本来は「開かずの門(禁門)」であったが、1788(天明8)年の大火の際にはじめて門が開かれた。蛤が焼かれて殻を開くのになぞられて呼ばれた。
蛤御門を警備していた薩摩藩と長州軍との間で激戦が繰りひろげられた。公家の鷹司家から出火した火が京の街を火の海に化した。この火事が
「鉄砲焼け」「どんどん焼け」といわれる。「どんどん」は鉄砲の射撃の際の擬音からきている。
京都の中心部の三分の二を三日間にわたって燃やしたこの火事は、京都にとっては応仁の乱以降最大の被害となった。公家・鷹司邸跡には碑
しか残っていないが、九條邸の庭にあった池と鎮守社、茶室・拾翆亭は残り、当時の面影を残している。
丸太町通の堺町御門から御苑に入る
堺町御門
門をくぐると御苑の広がりが目に入る。左手が九条邸跡で、石垣や石畳道の跡がうかがえる。
ケヤキかイチョウ、いずれかの大木 これから行く九条橋の上からも見える。木立の奥は九条池である。
五摂家の一つ九条家の邸宅のあった跡で、池はかつて邸内の園池であった。九条池の一体はサルスベリ(百日紅)の花が美しい。
九条池にかかる九条橋 架かる橋は1882(明治15)年に造られた高倉橋
渡り終わると、前方正面は建礼門。広い玉砂利の道がまっすぐ続き建礼門と紫宸殿の屋根を望む雄大な景色が目にできる。
九条橋からの景観(右側)
九条橋から景観(左側)…厳島神社周辺と拾翆亭である。
拾翆亭(しゅうすいてい)
数奇屋造、九条邸唯一の遺構。拾翠亭の名前は、九條池によく飛来したカワセミ(翠)に由来している。
江戸後期に建てられたと伝えられる茶室。九条家の別邸として、茶会や歌会など社交の場として利用された。現在は茶会などに利用されている。
厳島神社
京都市上京区御所内
祭神:宗像三女神とも称される、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、祇園女御
九条家の鎮守、中島に建つ。九条家が東京へ引き移ったのちも、中島に祀られた厳島神社は池と共に残された。
清盛とその母とされる祇園女御ゆかりの神社である。
厳島神社は、清盛とその母とされる祇園女御ゆかりの神社で、平清盛が育ての親のために、兵庫の築島に広島の厳島神社から福原の地に勧請した
のが始まりで、その後、室町幕府の12代将軍の義晴が京都の細川家の邸内に移し、さらに江戸時代の明和8年(1771年)に九条家の邸宅内に
移って九条家の鎮守社として崇拝された。明治の世になって九条家が東京へと移った後も神社はこの地に残され、現在に至っている。
鳥居
花崗岩で出来ているこの鳥居は唐破風形式であることから、「唐破風鳥居」と呼ばれ、北野天満宮の石造鳥居・蚕ノ社の三柱鳥居とあわせて
「京都三珍鳥居」とされている。
本殿・他
宗像神社へ向かう途中、新婚さんに出会い、紅葉と一緒に写す。
宗像神社
京都市上京区京都御苑9
祭神:多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命
宗像神社は、厳島神社のすぐ近くにあって九条邸跡の西北にあって、もとは花山院家の鎮守社であった。
795年(延暦14年)、藤原冬嗣が宗像神を勧請したのが起こり。
京都観光神社
恵まれた観光都市・京都に感謝の念を表すため、観光関係業者が京都観光神社を創建し、猿田彦大神を守護神として祀っている。
閑院宮邸跡
京都市上京区京都御所3
閑院宮邸跡周辺には、九条邸庭園の遺構である九条池や二階建茶室の拾翆亭などがあり、京都御苑の歴史に触れるには格好の場所とされる。
江戸時代から続いた閑院宮家の屋敷跡である。
閑院宮説明
東門
敷地は築地塀に囲まれ、主屋は木造平屋建の四つの棟で構成されている。
収納展示室・他
さまざまな写真や絵図、出土品などが展示され、スタッフによる解説が受けられる。
庭園
敷地内東南には庭園の一部として池が遺されている。18世紀中ごろの遺構をもとにした池や州浜がある。
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