JAPAN GEOGRAPHIC

京都市左京区 白沙村荘 橋本関雪記念館

Hakusasonso,Sakyoku,Kyoto city,Kyoto

Category
Rating 凡例
Comment 
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Sound/Noise
 
 Atmosphere
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility

 
 Food
 
 


April 4, 2020 野崎順次  source movie

国名勝 白沙村荘庭園 現代
本庭は池泉回遊式の庭であり、同時に庭内には茶亭があり、四阿もあり、仏堂もあり、そしてまた、前述のような石造美術品としての宝塔、五輪塔、石燈籠などが多く配置されていて、ただ単なる一般の庭園と趣が異なっている。
しかしそれかといって、画伯もやはりこの時代の自然主義的思潮の持主であったから、池庭はやはり、多くの植栽を中心とする深山幽谷的な池庭でり、大正から昭和初年の傾向をよく物語っている。
北部の門を入り、玄関の向かって左から庭内に入ると、そこには国東塔 (大分県国東半島地方にあった石造美術品) があり、宝塔として特に巨大であり鎌倉期の一級品であるが、この時代はこのような品まで地方へ流れたのであった。これを静御前の供養塔ともいっている。
その石塔を左に見て、東側の池畔を南に行くと、巨大な自然石の橋がある。その付近に、やはり鎌末期の層塔や石瞳や石仏がある。苔は美しく、マツ、スギ、カヱデ、その他の庭木の中を歩き、池泉の清水と鯉魚を眺めて南に回ると、そこに池上に臨む茶亭がある。巡って西に出ると、この付近にはまた石燈籠の優品が多く、小仏堂があって、これに十一面観音立像(貞観期)の立派な仏像が祀られいる。
池庭は自然風に作られ借景的ではないが、植栽が多く、自然の幽谷に入った感じである。あくまで関雪式の庭というほかはない。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」白沙村荘庭園より)

パンフレット
    


入口、板仏、国東塔、東門、矯々門
                    


宝篋印塔、石橋、芙蓉池
               


旧真福寺十三重塔 鎌倉時代後期 高300cm 安山岩
もと三重県松阪市蛸路の真福寺にあった塔で、保存はよいが相輪は新補である。下に繰形座をおき、基礎は側面は無地であるが、正面向って左下に納入孔があり、下に抜けて繰形座に通じている。初重軸部は四方に輪郭を巻いて内部の月輪内に金剛界四仏の梵字を彫る。屋根の軒は厚目で、ゆるく反り、作り出しの各層の軸部は低い。基礎の一面に「永仁六年(1298)戊戌十一月十六日、願主善アミダ仏」と三行に彫る銘文に片かなを使うのは珍しい。また軸部の輪郭巻きの手法は大和南部、東部から三重県に及んで例が多い。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年より)
   


憩寂庵と瑞月池
   


旧在伊賀九重層塔と如舫亭あたり
          


石橋を渡って憩寂庵の方へ、
      


旧但馬国分寺礎石の蹲
   


憩寂庵あたりの石造物
             


石仏と燈籠型観音石鐘など
     

正嘉元年在銘石燈籠 鎌倉時代中期 高221cm 花崗岩
苑内の持仏堂の東南、中門脇の植えこみの中に立っている。故橋本関雪画伯の蒐集された石造美術の一つである。基礎側面は二区格狭間、上端は複弁反花とする。竿は太くて重厚の感があり、中節の外へ張らぬ所は古風を示している。中台側面は二区で走獅子を浮彫し、火袋は前後を火口、残りは雲上に円窓が二面竪連子と斜十字が二面となる。下区はいずれも中心飾付きの格狭間とする。笠は大破して蕨手を欠き、宝珠は後補。竿の中節をはさんで上下にかけて三行に、「正嘉元年(1257)巳丁町四月日、沙弥西念、造立之」と立派な文字で刻む。この古い竿に対して中台の走獅子は鎌倉後期以後に多く用いられるものであり、火袋の格狭間や斜十字は鎌倉末期ごろと見たい。もと大和にあったものと思われる。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年より)
     


旧錦織神社層塔 平安時代後期 高313cm 凝灰岩
花崗岩の台石の上に基礎をおくが、かなり破損している。初重軸部は四方に金剛界四仏の梵字を彫る。その薬研彫は深く、鎌倉中期以後の型にはまったものでなく雄渾な字体である。屋根は低く軒反りはゆるい。破損している所が多く現在七重である。もとの所在地は大阪府富田林市甲田字宮林の錦織神社である。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年より)
      


大鞍馬石
   


持仏堂まわりの石燈籠など
       


旧持宝院層塔 平安時代後期 高約425cm 角礫質凝灰岩
もと香川県善通寺市與北町南谷の持宝常福寺にあったもので、昭和八年頃売却されて京都に運ばれ、昭和十七年橋本関節画伯の手に入った。現在十一重で、初重軸部は目立って背が高く、東南西の三面に金剛界四仏の中の三字は通常の梵字で刻まれるが、北方は大日の「バン」にしてある。東方の「ウーン」も二字を重ねた字体になっているなど、字体の古調とともに鎌倉時代の型とは余程違う。屋根の軒反りゆるく、真反りを示し、初重の屋根ど十一重目の屋根ではおよそ二分の一の割合の逓減になっていてすこぶる安定している。解体した時の所見では、各重屋根軸部の上端に大きい柄を作り出し、屋根下端の柄穴にはめこんで、積み上げを安全にする配慮がなされている。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年より)
    


七重層塔から薮の羅漢など石仏群
                 


持仏堂の裏あたり
          


橋本関雪記念館前のシャガの花、摩崖仏、石船
        


記念館2階ベランダから東山大文字を望む。
   


Sep.2010 撮影/文:中山辰夫

白沙村荘 橋本関雪記念館(はくさそんそう はしもとかんせつきねんかん)

京都市左京区浄土寺石橋町37

国名勝指定庭園

白沙村荘は、バス停「銀閣寺前」から東へ、銀閣寺へ向かう途中にある。「哲学の道」と向かい合って建っている。

        

日本画家・橋本関雪が大正5年に南禅寺から引っ越しアトリエ「画室」として、住居として築造された建物である。

約1万㎡の広さで、庭園と建物の一部が公開されている。記念館では関雪の作品やコレクションが展示されている。

白沙村荘の名前は近くを流れる白川の砂「白川砂」に由来するとのこと。

芙蓉池を中心に建てられた茶室や石橋、集められた石造品、奥にある竹林や羅漢の石造まで見るものが多い。

各々の立地も妙で、絵になるスポットが至るところに数多く設けられている。

庭園は東山・如意ケ嶽を借景とした池泉回遊式となっており、自由に散策できる。

今年の3月、漏電で、「憩寂庵「けいじゃくあん」」・倚翠亭(いすいてい)」が焼失した。素晴らしい佇まいの茶室だったようだ。

特に「倚翠亭」は数多くの映画のロケに使われてきた。季節ごとに咲く花も景観に彩を添える。

                                   

「芙蓉池」を中心に見事な景観を呈するこの庭園は、関雪が約30年間心血をかけて造営したもので、当初この辺りは人家も無く見渡す限り水田地帯であった。1m余りの土盛を重ね、敷地を買い増して徐々に造られてきた庭園であるとされる。

100年余経過した現在では想像も出来ない環境の中にあったようだ。

供待(ともまち)

大正5年(1910)頃建立 北門近くにある待合

        

瑞米山(ずいべんさん)

大正5年(1910)頃建立 白沙村荘の主家。ここで食事も出来る。芙蓉池を前面にした素晴らしい景色が堪能できる。

    

存古楼(ぞんころう)

大正5年(1910)建立 

芙蓉池に西側に建っている。関雪が大作を画いた大きなアトリエである。官展への出品作がここで生まれた。

採光に特にこだわったとされる。内部から見る庭園が素晴らしい。

    

門魚亭(もんぎょてい)

大正13年(1924)頃建立

茶室である。飛び石や石造物があって見る場所毎にで景観が異なって見飽きない。

        

持仏堂(じぶつどう)

昭和10年(1935)建立

関雪の夫人・よねの菩提を弔う堂宇

本尊は地蔵尊立像(国指定重要文化財)で、鎌倉初期(1200年頃)の作である。

    

珍しい中国産とされる白松

   

藪の羅漢

関雪が亡き妻・ヨネを偲んで庭園に安置した石仏群。ヨネを弔う持仏堂を見守っているようだ。

    

石造品

静御前の供養塔ともいわれる国東塔も含まれる。庭園にしっかり腰を下ろしている風である。

        

庭園に点在する奇岩

    

石橋

    

夕佳門と称され、ロケによく使われる門も含む。

     

ギャラリー(展示室)

撮影禁止である。

絵葉書から中心に代表作をならべる。

                

橋本関雪説明

   

ノアノア・・・和食の「橋本」も隣にある。

1970年に白沙村荘の洋館を改良し、当時京都では珍しかった自家製のピッーツアと茹で上げパスタのお店としてオープンしたレストラン。

国登録有形文化財のプレートがあった。

       


事務局用

   All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中