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京都府京都市右京区 花のいえ

Hananoie,Ukyoku,Kyoto city,Kyoto

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June 2013 中山辰夫

京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町9

角倉了以とその一族とのかかわりを訪ねる旅

「花のいえ」は豪商角倉一族の数ある邸宅の一つであった。 本邸は別にあって、ここは仕事に重きを置いた所とされる。

1606(慶長11)年に、角倉了以が保津川を開削して、この舟運管理のために、この地に舟番所兼邸宅を設けた。この土地は約5000㎡

当時は天龍寺の境内地であったとされ、豪商了以が天龍寺の借地に家を建てたことになるが、これは徳川家康の命(京都所司代の命)によるとされる。

了以は、富士川を開削。次いで天竜川も手掛けるが失敗に終わる。

1610(慶長15)年に鴨川水道を造り、1611(慶長16)年には高瀬川の開削に着手し1614(慶長19)年に完成させる。

その後、了以の長男素庵に、さらに素庵の長男玄紀が、高瀬川の権利を相続する。この家系が京角倉家として明治まで続く。

保津川の諸権利は素庵の次男・厳昭が相続する。この家系が嵯峨角倉家として明治5年まで続く。

花の家は角倉了以の当時いくつかあった邸宅の一つで、素庵が舟運管理に建てたともいわれる。

嵯峨角倉家が明治22年まで住んでいたがその後は京都府の第三代知事北垣国道氏が購入された。北垣氏は琵琶湖疏水事業を完成させた人である。

その後も、所有者が2〜3人変わり、昭和22年”花之家“を開業され、現在は公立学校共済組合の所有となっている。

門前の大堰川

ムクロジの巨樹が覆いかぶさるようだ。 樹齢300年と推定されている。

アプローチと庭 庭は枯山水庭園で、小堀遠州の作とされる。

茶室 遊心亭

前庭もある。

關鳩楼(かんきゅうろう)の外観

上がり口の扁額と意匠

扁額は了以の息子「素庵」の友人で、江戸時代初期の儒学者として有名な「林羅山」の書とされる。

杉戸絵

上り口一枚物の杉戸に描かれた狩野派の作とされる。やや彩色薄れているがジックリ見ると良さが分かるとされる。

關鳩楼の内部

当時のものといわれる離れ座敷「關鳩楼」は「ごてんの間」といわれている。

狩野派の杉戸絵や書院に展示の雪見灯籠(銘 天正元年 与次郎)、そして枯山水の中庭園(伝 小堀 遠州作)や、織部好みの切支丹灯籠(中庭園と茶室前庭)等からも当時の様子がうかがえる。

雪見灯籠

辻与次郎の作。釜の部分に≪天正元年(1572)与次郎作の銘がある。与次郎は近江国の出身で、千利休の釜師で、豊臣秀吉から「天下一」の商号を与えられた「茶の湯釜」製作の第一人者。

■■角倉了以とその一族とのかかわりを訪ねる旅—2

角倉了以の屋敷は、大堰川の左岸、渡月橋東一帯に広がっていた。

臨川寺(りんせんじ、1335(建武2)年 夢窓疎石 開山)の竹藪を切り開いたことに始まるとされる。

■渡月橋

渡月橋は、平安時代の承和年間(834〜48)に法輪寺の僧・道昌が架橋したのが始まりとされる。

現在の位置より上流に位置し、法輪寺の通行の為に架けられたので「法輪寺橋」とよばれていたとか。

渡月橋との名の由来は、嵐山天龍寺のある場所に亀山庭園を持っていた亀山上皇が、橋の上空を移動してゆく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と述べたことによるとされる。

その後橋は度重なる洪水や応仁の乱で焼け落ちたりした。天龍寺が大変な権勢を誇っていた頃は今より上流にあって、天龍寺の門前橋であった。

現在のもとになった渡月橋は、角倉了以によって1606(慶長11)年にこの場所に付け替えられた。

渡月橋は1934(昭和9)年6月に新たにコンクリート橋として完成した。一目見ただけでは木造に見えるが、橋脚と橋桁は鉄筋コンクリート製であるが欄干は木造となっている。長さ約154m、幅11mである。

花の家の北、川沿いに約100m、2筋目を東に入ると角倉稲荷神社がある。

■角倉稲荷神社

右京区嵯峨天龍寺角倉町12

祭神:宇賀御魂神

来歴は不明である。 なんと安倍清明の墓所と隣り合っている。

■安倍清明墓所

角倉家系譜

■角倉家歴代当主

角倉祖初代である吉田徳春

佐々木厳秀の9世目の子孫であるが、何か「事」と伝える変化が起こって本貫の地、吉田を応永年間(1394-1428)に出て京都角倉(京都市右京区)に移り医者になった。この人の子孫が角倉了以である。

徳春は、号を仁庵といい、医術に長じ、足利義持に仕え、法印となった。その晩年に嵯峨角蔵に閑居して、以来、子孫がここで栄えた。

2代吉田宗臨

足利義政に医術で仕える。土倉としての活動や酒屋の商売も始める。

3代目吉田宗忠 本名:与次

角倉家の巨富の基礎をつくる。「洛中帯座頭職並紅葉台官職」となる(1544)。土倉経営。能など芸能も嗜む。医業は次男宗桂に伝えられた。

宗忠の死後、孫の栄可が引継。この栄可が偉材で吉田家の発展に大きく貢献する。京都本圀寺日禛上人を開山に常寂光寺を建立する。

4代目吉田宗桂

入明を強く求め、入明僧策彦周良(さくげんしゅうりょう)に従い、遣明船で2度中国にわたる。医術は明でもあまねく知られる。

5代目角倉了以 本名:与七 諱:光好

朱印船貿易:安南・東京(ともに現在のベトナム)あての異国渡海朱印状を受領

土木水利事業:大堰川(1606)、富士川(1607)、天龍川(1608 実現せず)、賀茂川(淀・鳥羽1610)、高瀬川(1611-1614)

琵琶湖疎水計画(1614.実現せず)

瑞泉寺建立(1611)

6代目素庵

朱印船貿易:安南・東京あての異国渡海朱印状を受領

土木水利事業:大堰川(1606)、富士川(1607,1614)、賀茂川(淀・鳥羽 1610)、高瀬川(1611-1614)琵琶湖疏水計画(実現せず)

幕府役人的な活動:甲斐・伊豆・総州の鉱山巡視(1606-1609)。大坂の陣で家康軍の兵站部を担う→淀川過書船支配・地税免除。

木曽の巨材採運使(1615) 近江坂田郡の代官就(1615)

学問:儒者藤原惺窩・林羅山との交流。嵯峨本(本阿弥光悦<版下・装丁>・観世大夫<謡本>・中院通勝<文芸書>との交流)

7代目玄紀

高瀬川支配。淀川過書船支配・坂田郡代官を継承・二條屋敷居住・大堰川舟運管理・木曽の巨材採運使・安南国回易大使司継承

大堰川畔居住

 

参考資料≪角倉素庵・京都高瀬川・花のいえパンフレット、角倉了以フォーラム、他≫

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