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京都府京都市下京区 秦家住宅

Hatake,Shimogyoku,Kyoto city,Kyoto

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Nature
 モミジ
Water
 
Flower
 藪椿 梔(くちなし)
Culture
 
Facility
 
Food
 


Apr.2012 中山辰夫

京都市下京区油小路仏光寺下ル太子山町594

京都市登録有形文化財(店舗棟と玄関棟)

設計:不詳

竣工:明治2年(18699

構造:木造

表屋造形式の町家。

店舗棟は明治2年(1869)頃の建築で,玄関棟と居住棟は多少遅れる。

表構えは南側3間半を厨子2階建とし,2階に虫籠窓を開き,北側1間半は下屋庇付き平屋建とする。

正面に屋根付きの大看板を作りつけ,伝統的商家の趣きを残す。

秦家は、祇園祭のときに太子山を出す太子山町に建つ。杉本家とも数分の距離にある。

秦家住宅は江戸時代末期、元治元年におきた戦乱による大火で消失後、明治2年(1869)に再建された。

18世紀の半ば以降、12代にわたって「太子山奇應丸」の名で、漢方薬を製造、販売されてきた老舗である。

玄関棟と居住棟、裏には座敷庭を介して破なれ・土蔵が建ち、京町家の典型的な屋敷構を呈している。

外観

表の構えで一番に目につくのは、2階の真ん中に据え付けられた大きな屋根付きの看板とガス燈である。

看板には代表的な売薬「奇應丸」の名が記され、ガス燈にも記載されている。

カド

正面入口は、京都では「カド」とも呼ばれ、大戸と格子戸が建てられている。カドは、昼間は格子戸のみで

内部が透かして見える。夜は大戸で戸締りがされ、出入は大戸に設けた潜り戸で行う。

見世庭

開閉式の大戸。普段は潜り戸から出入りする。入ったところが店庭である。店庭の右手、ガラス戸の奥が見世である。

正面の柱には薬の名前を記した看板が吊られ、上のほうにはお札も貼られている。

正面に「奇應丸」と書かれた大きな置看板がでんと構え、その横に机と低い格子の仕切りが置かれる。

結界と称される豪商の趣をよく伝えている。格子は、内から外がよく見える。

大黒様

左手鴨居の上には、商売の神様である大黒様を祀る。

玄関

客は玄関から出入りする。玄関の前に板敷部部分を設けた格式高い玄関の形で、舞良戸(まいらど)

4枚を引き違い戸にして内側は障子にしてある。 奥には坪庭がある。夏になると景色が変わる。

坪庭

玄関の奥に作られた一間半四方の小さな庭である。右手店舗棟と左手居住棟との間に置かれ

通風・採光を確保している。隣家との境をなす竹垣の意匠がいい。

座敷

座敷には床、その両脇に平書院、棚などの座敷飾りが置かれる。典型的な座敷の姿である。

長押(なげし)が回っていないのは、建築年代が古い証である。夏になると藤(とう)の敷物や簀(すのこ)が広がる。

座敷から見る。 ガラス越しに朝・夕見る四季のうつろいが素晴しい。

座敷庭

左手は便所・風呂、右手は土蔵へ延びる廊下で区切られる。植木や庭石の変化が狭さを感じさせない。

離れと土蔵

廊下の置くに離れと土蔵がある。離れは昭和の初めに隠居部屋として建てられた。

土蔵の外観は二階建に見えるが、実際は三階建である。三階蔵は京都では珍しい。

元治の大火(1864)の際、焼け残ったものとされる。

土蔵の入口「引用」

昔は蔵の前には常に泥を準備しておき、いざの時には扉を閉めて、目地の泥を詰めて火の入るのを防いだ。

離れから座敷庭を見る

離れの障子を開けると、すぐ前に渡り廊下が延び、その奥に座敷にわが広がる。

通りの喧騒からはかけ離れた静けさを保つ。

離れの意匠

秦家には手の込んだ意匠が多くある。

座敷の平書院と離れの下地窓

廊下途中の登り段と坪庭の竹垣、座敷庭の切支丹籠

廊下の欄干

その他

泰家では、“泰家親子会”と称して、親子で伝統芸能と町家にふれる行事を年間通して行っている。

その機会を通じて、家を、物を、人を、慈しむことをこの家から学び取って欲しいと願っての開催である。

秦家パンフレット

太子山町

下京区油小路下ルに位置し、南北に通る油小路通りを挟んで東と西の家並みからつくられた町である。

平安京のころから存在し、以来1200年にわたって継続されてきた足跡は貴重とされる。

室町時代には少なくとも東側に二軒、西側に一軒の酒屋があったとされる。当時の酒屋が金融業を兼ねた有力

な商工業者であったことからすると、この地域は繁華な市街地であったようだ。

この地域の住人たちは、早くから祇園祭に山鉾を出していた。応仁の乱以前は「太子ほく」、乱後再開発された

時は「太子のそま入山」と伝え、聖徳太子、ないしは太子の杣入りの姿をもしたものであった。

現在の町名は、太子をテーマにした山に由来している。寛永頃に「太子山ノ町」という今の町名が用いられた。

天明8年(1788)の大火そして元治元年(1864)の大火で類焼し、その後新たに形成されたのが現在の家並み。

資料:(高橋康夫 京町家・千年の歩みより)

 

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