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京都府京都市東山区 方広寺

Hokoji,Higashiyamaku,Kyoto City,Kyoto

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September 1, 2024 野崎順次 source movie

京都府京都市東山区
天台宗
方広寺


方広寺の由来と沿革、遺跡などについては、下記史跡の説明文(文化遺産オンライン)を参考にされたい。
国史跡 方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔 安土・桃山

現在の方広寺本堂
妙法院の脇寺であった日厳院の客殿を、明治初頭に移築したものである。建物の創建は17世紀とされ、方広寺本尊を安置するため改変を受けているが、天台門跡寺院の客殿建築としては京都最古と考えられている。
(ウィキペディア「方広寺」)

      

盧舎那仏坐像 - 現在の方広寺本尊で、往時の大仏の1/10サイズの模像とされる坐像。文化元年(1804年)に開眼供養が行われた[69]。座高約2m。往時の大仏の造形を伝えるものは数が少なく、貴重なものである
(ウィキペディア「方広寺」)

    

鐘楼

      

国重文 梵鐘 慶長19年(1614)
慶長19年に梵鐘が完成するが、梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」が問題となり、大仏開眼供養の延期が命じられるとともに、大坂の陣が起こり、豊臣氏は滅亡する。
(ウィキペディア「方広寺」)

               

市文 方広寺大仏殿遺物9点
大仏殿関連が銅製風鐸・銅製舌各1点、鉄製金輪4点で、大仏関連が銅製蓮肉片・銅製蓮弁・鉄製光背金具各1点からなる。
(ウィキペディア「方広寺」)

     

国史跡 石塁
旧境内外周の石塁は一枚岩の巨岩を用いるもので、正面(西面)、北面と南面の一部が地上に遺存している。
(文化遺産オンライン)

               

耳塚(鼻塚)
朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役にかかる遺跡である。秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。
(隠れ京都案内サイト)

                    

馬塚
豊国神社南東隅の狭小な国有地に存在するもので、元和元年(1615)、破却された豊国廟に代わって秀吉の墳墓として造立されたものである。
(文化遺産オンライン)

         

国史跡 大仏殿跡緑地公園
平成12年、緑地公園整備に伴って行われた、(財)京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査や平成25年の範囲確認調査等によって、大仏殿基壇上面の四半敷石敷き、礎石据付穴、大仏台座石組み、基壇南辺の地覆石・羽目石、南階段耳石、基壇西辺及び西辺の地覆石抜き取り溝、大仏殿建設時の足場柱穴等が検出され、豊臣秀吉創建期と秀頼再建期の規模及び構造の一端が明らかとなった。
(文化遺産オンライン)

            

 


Jan.01.2015 中山辰夫

京都市東山区大和大路通り七条上る茶屋町527−2

宗派:天台宗 本尊:盧舎那仏坐像・大黒天

豊国神社に隣接している。

通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那天大仏)を安置するための寺として創建された。

 

本堂・他

現在は鐘楼と鐘銘事件の原因となった鐘(重要文化財)が残り,本堂には大仏盧舎那仏や10分の1に縮少した大仏(阿弥陀如来像)が安置されている。

       

豊臣秀吉は1586(天正14)年(1586年)に焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。大仏殿は大和大路に西面して建てられ、大仏への参詣の便に伏見街道なども整備された。

大仏は1591(天正19)年に立柱式が行われ、1595(文禄4)年に完成をみた。

当時の敷地は広大なもので、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。

 

豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。

なお、東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。

石垣・太閤塀・南大門・南大門(東寺)

    

鐘楼と梵鐘

    

大仏が1596年の慶長伏見地震で倒壊したため、豊臣秀頼は1599(慶長4)年、大仏(銅造)の復興を図るが、1602(慶長7)年流し込んだ銅の漏出で火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した。

1608(慶長13)年より再建が開始され、1612(慶長17)年には大仏に金箔を押すところまで完成。1614(慶長19)年には梵鐘が完成し、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが梵鐘の銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒とくするものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされる事件が起こった。(方広寺鐘銘事件)。

梵鐘

国重要文化財

「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘の一つとされる。

1614年(慶長19年)京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。

銘は撞座の左上にある

           

方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔

国の史跡

 

大仏殿跡地

国史跡

豊国神社の後方にある。

    

大仏殿は、2000年(平成12年)発掘調査により高さ約49m、東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった。

石塁

豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であった。

  

耳塚

豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。

耳塚(みみづか)は、文禄・慶長の役の朝鮮、明兵の戦死者の耳、鼻を弔った塚である墓。

古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。

昭和44年(1968年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。

     

 


Mar.2010 瀧山幸伸 source movie

 

A camera

                 

B camera

                                   

 

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