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京都府京都市東山区 方広寺

Hokoji,Higashiyamaku,Kyoto city,Kyoto

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Jan.01.2015 中山辰夫

京都市東山区大和大路通り七条上る茶屋町527−2

宗派:天台宗 本尊:盧舎那仏坐像・大黒天

豊国神社に隣接している。

通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那天大仏)を安置するための寺として創建された。

本堂・他

現在は鐘楼と鐘銘事件の原因となった鐘(重要文化財)が残り,本堂には大仏盧舎那仏や10分の1に縮少した大仏(阿弥陀如来像)が安置されている。

豊臣秀吉は1586(天正14)年(1586年)に焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。大仏殿は大和大路に西面して建てられ、大仏への参詣の便に伏見街道なども整備された。

大仏は1591(天正19)年に立柱式が行われ、1595(文禄4)年に完成をみた。

当時の敷地は広大なもので、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。

豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。

なお、東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。

石垣・太閤塀・南大門・南大門(東寺)

鐘楼と梵鐘

大仏が1596年の慶長伏見地震で倒壊したため、豊臣秀頼は1599(慶長4)年、大仏(銅造)の復興を図るが、1602(慶長7)年流し込んだ銅の漏出で火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した。

1608(慶長13)年より再建が開始され、1612(慶長17)年には大仏に金箔を押すところまで完成。1614(慶長19)年には梵鐘が完成し、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが梵鐘の銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒とくするものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされる事件が起こった。(方広寺鐘銘事件)。

梵鐘

国重要文化財

「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘の一つとされる。

1614年(慶長19年)京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。

銘は撞座の左上にある

方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔

国の史跡

大仏殿跡地

国史跡

豊国神社の後方にある。

大仏殿は、2000年(平成12年)発掘調査により高さ約49m、東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった。

石塁

豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であった。

耳塚

豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。

耳塚(みみづか)は、文禄・慶長の役の朝鮮、明兵の戦死者の耳、鼻を弔った塚である墓。

古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。

昭和44年(1968年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。

 


Mar.2010 瀧山幸伸 source movie

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