京都府京都市左京区 怡園(旧細川家別邸)庭園
Ien,Sakyoku,,Kyoto city,Kyoto
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July 25,2015 中山辰夫
怡園(旧細川家別邸)庭園 (非公開)
左京区南禅寺下河原町43−1,22
怡園が所在する下河原町は南禅寺塔頭の合寺・廃寺の結果、明治・大正期に新たに登場した富裕層の邸宅や別荘地として、特に近代数寄者といわれる人々の集う場所ともなった。鹿ケ谷通には永観堂が隣接し、野村美術館、野村碧雲荘、清流亭、流響院とは対面しており、白川通にも近い。
現在もその頃の雰囲気を保ち続ける閑静な地である。
突き当たりが怡園、右が野村碧雲荘、左が清流亭
怡園は白川通りと二条通りの交差点から少し北東にあり、1872(明治5)年の合廃寺令で姿を消した南禅寺の塔頭・少林院跡である。
細川家第16代当主の護立が別荘を営み、7代目小川治兵衛(植治)による作庭が1932(昭和7)年に完了した。
「怡園」の「怡」は「喜ぶ」あるいは「楽しむ」の意である。庭園を楽しむ—施主の要望に応えた植治の作庭である。
近代庭園に目覚めた無鄰菴の作庭から40年、無鄰菴と近似したこの庭園は、植治の有終の美を飾った庭園とされる。
所有者の変遷
明治30年以前は島津藤兵衛の所有〜服部恒次郎〜小林卯三郎〜角星合資会社〜春海敏〜井上麟吉〜・・・〜細川家〜?(大松(株))
この地は明治の初期から中期にかけて、島津藤兵衛の所有であった。島津は1871(明治4)年頃、少林院の払下げを受けた7人の1人である。
1911(明治44)年に現在の碧雲荘に当たる地所とともに、この一帯の高級別荘地開発を狙った塚本与三次の角星合資会社の所有となった。
その後、幾多の経過を経て、1928(昭和3)年細川家の所有となった。現在は移っている。 怡園は一時期料亭として使われたことがある。
非公開の為外観のみ
庭園配置図
園池への水は、清流亭と共同で扇ダムから専用の鉄管を埋設した。
庭の構成は無鄰菴と瓜二つとされ、これは施主・細川護立の要望による。南向きの表門を入ると、左手が主屋の玄関、右が庭への入口である。
「植治の庭」からの引用。
小川治兵衛の作庭技術が最も円熟の境地に達したと思われる時代の作品とされ、渓流の石組が素晴らしく、配石の美しさ、大中小の庭石の配合、その美しい庭石の姿のとらえ方、加えて野趣にとんだ仕上げに感心させられると中根金作氏が述べている。
植治の作庭に関しての記録は残っていない。ただこの時期、岩崎別邸や清流亭、怡園に琵琶湖疏水の水を確保するために、植治が関係者と調整を行ったという記録が残っているという。単なる庭師の枠を超えた別荘コーデイネーター、更には近代造園の総合プロデユサ—としての植治の側面も見られるとされる。
参考資料≪植治・京都名庭100選・植治の庭・岡崎・南禅寺界隈の庭の調査・7代目小川治兵衛・等より引用≫
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