京都府京都市北区 上品蓮台寺
Jobonrendaiji,Kitaku,Kyoto City, Kyoto
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January 17, 2025 野崎順次 source movie
京都府京都市北区紫野十二坊町
真言宗智山派
蓮華金宝山蓮華金宝山九品三昧院 上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)
寺伝によれば、当寺は、聖徳太子の創建と伝え、当初香隆寺(こうりゅうじ)と称したが、天徳4年(960)宇多法皇の勅願により、寛空僧正(かんくうそうじょう)が再建し、寺号を上品蓮台寺と改めたといわれている。当時は、広大な寺域に伽藍(がらん)が建ち並び壮大なものであったが、応仁の兵火により悉く焼失した。文禄年間(1592~96)性盛上人(しょうせいしょうにん)が復興し、当寺の外に十二の支院を建立したので、俗に十二坊の名で呼ばれるようになった。しかし、現在支院は三院を残すのみである。本堂には、村上天皇より賜った上品蓮台寺の勅額を掲げ、内部には、本尊延命地蔵菩薩像を安置している。
寺宝としては、著色絵因果経(国宝)、著色文殊菩薩画像、著色六地蔵画像(ともに重要文化財)など、多くの文化財を蔵している。
(京都観光Navi)
桜の名所でもあるが、今回は石造物を鑑賞する。その多くが支院真言院の北の墓地にある。
道を隔てて南にある上品蓮台寺墓地入口の石仏
伽藍
仏師定朝墓はなかなか見つからなかったが、上品蓮台寺の南西裏にある。
高さ約2mの笠塔婆に「日本仏師開山常朝法印康□」と印されている。定朝は、平等院の阿弥陀如来(国宝)を完成した四年後の天喜五年(1057)十一月一日に没し、遺体は上品蓮台寺に埋葬された。墓碑銘の「常朝」は、朝廷からの諡号(おくりな)。
(河合哲雄「石仏と石塔」ウェブサイト)
寺域の北西、真言院の西側におびただしい数の石仏が集められている。お顔のいい阿弥陀様もおられる。
真言院北の墓地、西の方に源頼光朝臣塚(蜘蛛塚)
その墓地の中央に空海の母のお墓と伝わり、「阿刀氏塔」と呼ばれる五輪塔がある。
五輪塔(鎌倉時代後期 花崗岩 高さ約220cm)
火輪は、軒口は厚く、先端を垂直に切る。軒反は力強い。水輪は、最大径がやや上にあり、スムーズにすぼまっている。地輪
は、二段の切石基壇上に五輪塔を安置する。地輪に刻銘はない
(河合哲雄「石仏と石塔」ウェブサイト)
その他
墓地入口の両側に置かれている中世の阿弥陀石仏。石仏の前には、石塔の反花座等を利用し、茶碗を置いている
Mar.21,2020 瀧山幸伸
京都府京都市北区紫野十二坊町33−1
寺伝によれば、聖徳太子が母の菩提寺として建立し、宇多法皇が中興したという(『山州名跡志』)。
天徳4年(960年)9月9日付の蓮台寺供養願文(『本朝文集』所収)に、東寺長者寛空が北山に一堂を建立し、亡き父母の供養をしたとあり、『日本紀略』同日条にも同様の記載があるが、これが上品蓮台寺の実質的な創建を伝えるものと推測される。当寺は一名香隆寺とも呼ばれたが、これは寛空が隣接する香隆寺(後に上品蓮台寺に合併)を兼帯していたためである。寛空は宇多法皇の弟子にあたり、大覚寺で法皇から灌頂を受けている。宇多法皇の孫(敦実親王の子)にあたる寛朝僧正も当寺の住持になっている。
嵯峨清凉寺の本尊で、「三国伝来の霊像」として広く信仰を集めてきた釈迦如来像は、一時期、上品蓮台寺に安置されていた。『扶桑略記』によれば、寛和3年(永延元年・987年)に奝然が同釈迦像を宋から日本へ請来した際、一時この寺に安置し、後に清涼寺に移したという。
寺は応仁の乱で焼けたが、文禄年間(1592 - 1596年)、豊臣秀吉の援助のもと、紀州根来寺の性盛によって復興された。
現在の境内は千本通りの西側に位置するが、かつては、千本通りを挟んで塔頭が12院あったことから「十二坊」とも称され、これが町名(紫野十二坊町)の由来となっている。境内には仏師定朝墓があり、境内北側の真言院には源頼光の蜘蛛退治にまつわる頼光塚がある。
(wikipedia)
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