京都市山科区 勧修寺
Kajuji,Yamashinaku,Kyoto city,Kyoto
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京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6 勧修寺書院 重文 近世以前/住宅 江戸中期 17世紀末 桁行正面六間、背面九間、梁間東側面五間、西側面四間、一重、入母屋造、こけら葺 19140417
November 14,2020 大野木康夫
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勧修寺の紅葉は、宸殿前と書院西側のモミジ、書院南側のドウダンツツジ、庭園東側の丘の周辺のモミジですが、色づきがばらばらで、盛りのものもまだ色づき始めのものもありました。
京都府京都市山科区
亀甲山 勧修寺
開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。
(中略)
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。
(ウィキペディア「勧修寺」より)
絵葉書と現地説明板
築地塀沿いに山門へ、そして中門へ
市文 宸殿
国重文 書院 江戸中期(17世紀末)
桁行正面六間、背面九間、梁間東側面五間、西側面四間、一重、入母屋造、こけら葺
書院前庭園
市文 本堂とそのあたりの境内、本堂は台風の被害を受けたのかブルーシートをかぶせたままである。
勧修寺庭園
本庭の全面積は六千九百余坪もある大池庭で、その様式は池泉舟遊式とされている。そして本庭は、もともと北部に寝殿があって、その南庭として築造されているが、現状ではもとの寝殿のあった一部に明正殿と書院とがあり、池庭との間は広く空地となっているが、この空地の付近の池庭の曲線が強く南に突出していたのを近年改悪された。
現状ではこの池中に五島と出島が西部にあるが、この出島も中島らしいので、もともと六島あったと考えられるから、本庭は多島式の園池として平安期の典型様式を物語っている。これらの中島は、本来蓬莱、方丈、瀛洲、壷梁等の蓬莱諸島であり、南東部奥の大島が曲玉式の曲線をもっているあたりは、興味のある形式であり、その先端が今の松島に有機的なにあたっていることもおもしろく、集仙島と南部の島、またはこの南部の島と西の出島も、いずれも有機的に配島されている。
現状では。これらの諸島には石組は見られないし、雑木が繁茂している。最近になって、東部の池畔に多数の護岸石組を施したり、西部の築山が改悪されたりして、まことの惜しいことをしたのであるが、それでも池底部を調査すると、未だ泥土と栗石が大半保存されている。築山の滝の石組なども傑出していたが、今日では見られなくなった。それにしても地割を大体に保存していることによって、平安期の庭として傑出している。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典」勧修寺庭園より)
グーグルマップで見ると、池が氷室池で、島の名前が、緑鴨洲、集仙島、方壺島(南中央の出島)、池の北西に翠微瀑という滝、西岸に白花渚、西南の出島に忘帰亭跡との地名がある。
池の北東岸からスタートして左回りに見ていく。目の前の島が緑鴨洲である。
池の北西の観音堂(昭和初期の建立)
西岸に回り込む。
翠微瀑
西岸を南へ
四国八十八ヶ所めぐりの石仏
西南の出島あたり
重森三玲のいう滝下流付近の石組によく似ている個所
南の出島(方壺島)あたり
東岸を北へ
集仙島
緑鴨洲の近くに戻ってきた。
山桃の老木と水仙
京都市山科区勧修寺仁王堂町27−6
最寄駅は京都市地下鉄東西線の小野駅。下車して10数分歩く。
案内・境内図
宗派:真言宗山階派の大本山 本尊:千手観音 創建:900(昌隊)3年 開基:承俊律師
勧修寺は宇多天皇の妃となり醍醐天皇を生んだ藤原胤子の外祖父にあたるこの地の大統宮道弥益(みやじのいやます)の家を寺にしたもの。
後醍醐天皇が生母藤原胤子(いんし)追善のために創建されたお寺で、外祖父にあたる藤原高藤の諡号をとって勧修寺とした。
こうした経緯から、高藤一家と宮道一家の幸運を祝い、醍醐天皇家と併せて両家の末永い繁栄を祈ったのが勧修寺である。
代々法親王が入寺する宮門跡として栄えたが、1470(文明7)年の兵火で焼失。その後、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助で復興した。
お寺の外を一回りする。結構な広さでした。
山門
玄関前広場
玄関
正面が玄関でその奥が庫裏である。
中門
門を潜ると前面に真っ赤に燃える紅葉が広がる。右側に宸殿が見える。
宸殿 京都市文化財指定
1697(元禄10)年に明正天皇の旧殿・対面所を賜った建物で、入母屋蔵、桟瓦葺の寝殿造り風。18畳の二の間、三の間、15畳の上段の間がある。明治維新直後は小学校に使われていた。
書院 国重要文化財
宸殿の南側にある。単層、入母屋造、?葺。1686明正天皇の旧殿とされるが別説もある。内部は典型的な江戸初期の書院造。一の間の違棚は典雅な技巧で知られ、勧修寺棚と呼ばれる。狩野派の筆といわれる極彩色障壁画で飾られている。
書院前方の植栽
樹齢750年ともいわれる「ハイビャクシン」
ヒノキ科。一面一本の樹で、京都市の名木の一つ。
勧修寺型灯籠
水戸光圀公の寄進とされる石灯籠
他
書院から五大堂、本堂とは廊下でつながっている。
本堂 京都市文化財指定
1672 (寛文12)年に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたもので、元は近衛家の建物であったとされる。
当初は道場として造営された。本尊千手観音立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。
本尊:千手観音 (京都発見:梅原猛より引用)
観音堂
1931(昭和6年)再建。大悲閣とも呼ばれる
本堂へ続く石道
弁天堂
庭園
氷室池を中心とした池泉舟遊式庭園で平安時代の遺構とされ、京都では最も古い形式を伝えている。
氷室池
6600㎡の広さ。古く平安時代には毎年1月2日、この池に張る氷を宮中に献上。その氷の厚さでその年の豊凶を占ったとされる。
大きな池中に三つの島がある。北東の島を集仙島、中央近くが緑鴨州、南が方壺島と呼ばれる。夏には睡蓮が咲き誇る。
1786(天明6)年刊の「拾遺都名所図会」には”氷室池十五勝”が描かれている。
西国八十八カ所巡り
境内の紅葉めぐり
勧修寺は現在、約130カ寺の末寺を持つが、そのおおよそ半分は和歌山県の寺である。
伏見宮出身の尊孝法親王が長史になり、この尊孝法親王の叔母が八代将軍吉宗の側室であったことから、勧修寺が将軍家の縁戚に相応しい寺とするため紀州・和歌山の寺百カ寺ほどを末寺として与えたことによる。
参考資料≪淡交社—勧修院、京都発見、パンフレット、他≫
March 14,2015 大野木康夫 source movie
拝観入口の高麗門とその付近
宸殿前の梅
宸殿(京都市指定文化財)
延宝4(1676)年建築の明正院御所御対面所を移築したもの(京都市HPより)
勧修寺型灯籠とハイビャクシン(樹齢750年)
臥龍梅
書院(重要文化財)
後西又は明正天皇の御所の建物を移築したもの
庭園(京都市指定名勝)
氷室池周辺の野鳥
本堂(京都市指定文化財)
霊元天皇の仮皇居内侍所仮殿を移築
2012.6.16撮影
勧修寺に花菖蒲を見に行きました。
境内各所
書院(重要文化財)
17世紀末の建築
桁行正面六間、背面九間、梁間東側面五間、西側面四間、一重、入母屋造、こけら葺
観音堂
氷室池
花菖蒲、睡蓮、半夏生が咲いていました。
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