京都市左京区 金福寺
Konpukuji,Sakyoku,Kyoto city
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March 5, 2023 野崎順次 source movie
京都府京都市左京区一乗寺才形町20
臨済宗南禅寺派
仏日山 金福寺
和尚が再興し、現在は臨済宗南禅寺派。松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵は荒廃したが、のち与謝蕪村が再興。紅葉が美しい。背後の丘に与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。
また、舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロイン村山たか女は文久2年、勤皇の志士によって三条河原でさらし者にされたが、3日後助けられて金福寺に入り尼として明治9年まで14年間すごし、当寺で生涯を終った。法名は清光素省禅尼と云う。本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できる。
庭園は皐月の築山と白砂の簡素な枯山水。3段の生垣ごしには素朴な趣の芭蕉庵の萱葺き屋根が見える。3月は紅梅とあせびの花、11月はさざんかと紅葉が美しい。芭蕉庵からは洛中が一望できる。
(京都観光Naviサイト)
パンフレットと現地説明板
山門から本堂
本堂(その内部の南側は書院「残照亭」というらしい)
本堂内部
書院の展示
中門あたりの句碑など
植治による枯山水庭園
本堂からは築山一面にサツキの植わった白砂の枯山水庭園が眺められます。ここもサツキの季節に訪れたかった場所。“芭蕉庵”のみならず庭園も近年修復されたのか、全体的にサツキが小ぶりにになっている点と、斜面の石灯籠のそばにあった中高木が一つなくなっていました。
あと作庭者について。これまで江戸時代初期の(その元禄年間再興時の)作庭だと思っていたんですが、鈴木博之『庭師小川治兵衛とその時代』など2つの文献で、七代目小川治兵衛が1932年(昭和7年)に手掛けたとあり。元の庭園をこの年代に改修・修復をしたということかな…。
秋に再訪した時にご住職も七代目小川治兵衛の庭園だと明言されておりました。その白砂の枯山水は『南禅寺』派の庭園の特徴なのかもしれないけど、その園路・延段は植治らしさが現れているかと思います。足元にも注目したい庭園。
(おにわさんサイト)
芭蕉亭
松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵は荒廃したが、のち与謝蕪村が再興。
与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑
眺望
墓地の石仏
京都府京都市左京区一乗寺才形町20
臨済宗南禅寺派
佛日山 金福寺
864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。 当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年?1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。 その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。幕末に入り舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた
(ウィキペディア「金福寺」より)
パンフレットと現地説明板
山門あたり
村上たか女創建の弁天堂
庭園と本堂
芭蕉庵
庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵で、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。 元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年(安永5年)再興された。
(ウィキペディア「金福寺」より)
翁の水、樹齢300年のやまもも、句碑、筆塚、与謝野蕪村墓、京都市街の眺望など
内部展示
November 20, 2013 大野木康夫 source movie
所在地 京都府京都市左京区一乗寺才形町20
紅葉の金福寺、盛り少し前の状態でした。
Nov.2010 瀧山幸伸 source movie
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