京都府京都市左京区 曼殊院
Manshuin,Sakyoku,Kyoto City,Kyoto
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京都市左京区一乗寺竹ノ内町42 曼殊院 本堂 重文 近世以前/住宅 江戸前期 明暦2(1656) 桁行14.7m、梁間10.8m、一重、寄棟造、こけら葺 廊下1棟 19370729
京都市左京区一乗寺竹ノ内町42 曼殊院 書院 重文 近世以前/住宅 江戸前期 明暦2(1656) 桁行10.0m、梁間8.9m、一重、南面寄棟造、北面切妻造、南面、東面及び西面庇付、こけら葺 茶室1棟 19370729
京都市左京区一乗寺竹ノ内町42 曼殊院 庫裏 重文 近世以前/寺院 江戸前期 明暦2(1656) 桁行15.9m、梁間12.3m、一重、入母屋造、本瓦葺、玄関附属、唐破風造、檜皮葺 19760520
December 7, 2024 野崎順次 source movie
アプローチ
市バス一乗寺清水町から東へ坂道を上る。熊出没注意の表示あり。
パンフレットなど
参道
勅使門あたり
山門あたり
坪庭および中庭
国名勝 曼殊院書院庭園 江戸時代 枯山水
明暦2年良尚親王が堂宇を造営せしめたとき作庭されたものと考えられる。書院の前面に白砂を敷きて水面を現わし、2島を置き、背景として3つの築山を設ける。築山間に石橋を架して立石を添え深山幽谷を景趣を象り、ここから一連の石組を西方へ流し、更に築山から島へ低く石橋を架けている。書院の東側は八窓茶席の露地として飛石を配している。
大書院前の曼殊院型燈篭と小書院前の梟の手水鉢とは■に名品として知られる。江戸時代の枯山水として著名である。
(文化遺産オンライン)
八窓茶席の露地
その奥、山側
小書院前の梟の手水鉢
亀島
瀧石と石橋と水分石
鶴島
護摩堂を過ぎて
盲亀浮木の庭
帰途、山門から勅使門を経て
November 24,2020 大野木康夫
source movie
曼殊院道
勅使門付近の紅葉
北通用門へ
庫裏
庫裏西側の紅葉
庫裏東側の紅葉
庭園の紅葉風景
November 18, 2018 野崎順次 source movie
京都府京都市左京区一乗寺竹之内町42
曼殊院門跡
曼殊院を東山山麓の現在地に移し、寺観を整えたのは29世門主の良尚法親王であった(法親王とは皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者の称である)。
曼殊院の現在地への移転は明暦2年(1656年)のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。
この地は曼殊院と同じく比叡山の小坊の1つで慶滋保胤らによって勧学会が開かれたものの後に廃絶した月林寺の跡地であったと言われている。
良尚法親王は桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁親王の第二皇子であり、後水尾天皇の猶子であった。
良尚法親王は天台座主(天台宗最高の地位)を務めた仏教者であると共に茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた教養人であり、当代文化に与えた影響は大きかった。
曼殊院に伝存する茶室、古今伝授資料(古今和歌集の秘伝を相承するための資料)、立花図(池坊流2世池坊専好の立花をスケッチしたもの)などの文化財は法親王の趣味と教養の広さを示している。
(ウィキペディア「曼殊院」より)
パンフレットと現地説明板
アプローチ
勅使門あたり
曼殊院庭園
本庭は面積約四百二十坪ほどあるが、この枯山水は、全体の地割が池庭式であって、既にこの明暦頃には枯山水が次第に具象性を強化している時代であり、地割もよくこの時代の特色を見せている。
本庭は大書院から小書院の南庭として作庭されていて、東部は山版下となり、小書院の前方に石橋を架け、そのに橋添石を一石高く立て、一種の枯滝を構成し、その下部を枯流として水分石を配し、中央に亀島を作っているが、この亀島は相当に荒廃している。
さらに大書院の前庭は、これまた鶴石組を中宗的に組み、自然石の豪華な石橋を架け、その石組の構成が極めて豪健である。そしてこの庭には、特色のある織部型(キリシタン型)の石燈籠があり、竿に円形のホゾを作っていることが特色であり良尚法親王の御好みであろう。
あるいはまた小書院の縁先に梟形の手水鉢があるが、これまたこの時代に創作されたものであり、この梟型を古くは鶴の塔と称した例があるから、おそらく鶴の手水鉢とされたものであった、そのためにその下部の石組が亀形に組まれているから、この手水鉢は鶴亀蓬莱の手水鉢ということができる。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典」曼殊院庭園より)
中庭
近くの神社(天満宮、弁天堂)
Feb.28,2018 中山辰夫
曼殊院は修学院離宮とも近い。
「小さな桂離宮」ともいわれ桂離宮を創始された八条宮智仁親王の皇子良尚法親が1656年、現在地に移された。
そのためそこかしこに桂離宮と通うものがある。大書院・小書院・八窓軒茶室・庫裏は重文。枯山水の庭園(名勝)。
国宝の不動明王(黄不動)は三不動の一つ。内部の襖絵は主に狩野探幽筆だが、他に狩野永徳筆竹虎図(重文)など。
屋根の修復工事が2017(平成29)年12月に終わり、足場が今年の1月に外された小書院が今回訪問の主目的。約1年強の工事であった。
小書院とその周辺
江戸時代の建築(1656年)で重要文化財。庭園正面、大書院(本堂)の北東につらなる数奇屋風の書院。
廊下部分と室内部分との屋根は雁が二羽重なって飛んで行く様子を表し二重屋根となっている。
大書院とは廊下でつながっている。廊下は屋形舟(御座舟)に見立てる。前面は庭園
縁には板欄干が廻らされ、天井は疎垂木(まばらたるき)木舞裏になっており、一部は屋形船のように造られている。
「黄昏の間
良尚法親王の居間であり最高の室。上段(二畳)は黒漆塗框、床の床柱に磨き丸太、格天井、菊の欄間、富士の釘隠し、約十種の寄木でできた曼殊院棚など、随所に意匠が凝らされている。「曼殊院棚」は「桂離宮の桂棚、修学院離宮の霞棚」に並ぶとされる。狩野探幽筆の障壁画がある。
梟(ふくろう)の手水鉢
下の台は亀、傍らの石は鶴をかたどっている。
小書院庭園
築山の間を2つの巨石の青石で「橋石組」が組まれている。砂紋を引いた白砂の大河が苔地の間を流れ下り、大海に注ぐ。
その右手にある橋添石の立石は滝を表し流れの起点を示している。 亀島には地を這う亀の形をしたアカマツが植えてある。
茶室・八窓軒 国重要文化財
「黄昏の間」北に「八窓軒」ある。「京都三名席」(ほかに孤篷庵「忘筌席」、金地院「八窓席」)の一つにあげられる。
釈迦の生涯を8場面で説く「八相成道(はっそうじょうどう)」、また八宗を表しているともいう。
書院庭園 国名勝 枯山水式庭園 江戸時代 1656年作庭 遠州好みに作庭 深山から流れた水が、滝、渓流、海へと注ぐ様子が、3つの築山、立石、石橋、白砂で表現されている
鶴松−五葉松
飛翔する鶴を表現された樹齢400年のゴヨウマツ 根元に曼殊院型灯籠(キリシタン灯籠)が建つ。
大書院 国重要文化財
数寄屋風書院造、一重、寄棟造、こけら葺、むくり屋根。桁行7間、梁行8間。
Nov.12,2017 瀧山幸伸
Nov.5.2017 中山辰夫
京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
宗派:天台宗 本尊:阿弥陀如来 開基:是算(ぜさん) 創建:天歴年間(947〜57)
曼殊院は、もと伝教大師の草創(8世紀)に始まり、是算国師の代になって比叡山西塔北渓にあって「東尾坊」と称して本拠となした。
是算国師は、天台宗で、阿闍梨号を最初に請けた僧で、密教学者でもあった。947(天暦元)年、当院の住持、是算国師は菅原家出身のため北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、約九百数十年間これを兼務した。
「東尾坊」を改め「曼殊院」と称したのは、是算国師から八代後の天仁年間(1108〜10)からである。
門跡寺院となったのは文明年間から。豊臣秀吉や徳川家康から加護され寺勢が高まった。
現在の地に移ったのは1656(明暦2)年からで、29世門主の良尚法親王の時である。
曼殊院は国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。
参道
築地塀と苔、土壁は5本線入り
配置図 (曼殊院HPより引用)
勅使門
一段と高く積まれた石積みの15段の石段の上に西面して建つ。薬医門様式の門。1656年頃建立。曼殊院門跡家紋がなびく。
勅使門の内側は、座敷・庫裏・玄関が並ぶ。
北通用門周辺(入口=受付) ここをくぐると庫裏に導かれる。
庫裏(国重要文化財) 現在通用口である。
入口の大妻屋根の額「媚竃 びそう」 良尚法親王の筆。
『論語』の「その奥に媚よりは、むしろ竃に媚びよ」を原典に引用した語。
我々に食を供してくれる竈で下働きしている人に媚びよという戒めを自らに課して説いたとされる。
大玄関の諸室
金碧障壁画が周囲をぐるりと巻いた「虎の間」・「竹の間」・「孔雀の間」の諸室がある。玄関から取り付け廊下が大書院に渡されている。
大書院へ続く取付け廊下
ガラス戸越に護摩堂と宸殿建設予定地の立板が見える。左側は坪庭
大書院 国重要文化財
本堂を兼ねて小書院に連なる。書院造りの様式を伝える。南広縁には良尚法親王筆の「塵慮尽 じんりょうじん」の扁額がかかる。
邪(よこしま)な心を払うという意味。伝承によると、この扁額が先に出来て、親王はこの意を表すよう書院の作事を指導したという。
建築は、桂離宮との様式の類似しており、引手等に種々の意匠が凝らされている。?葺きの屋根、内部は、南と東に低い高欄を設けた広縁が鈎型に巡り、南や北に広間が配されている。
庭園 名勝庭園指定 枯山水である。
書院式枯山水。作者不明。親王自身の指図による作庭と思われる。書院前面に大きく広がる白砂の海に、手前左右に亀島と鶴島の二島、東奥に蓬莱島に見立てた築山が配される。
鶴島の五葉松と亀島
樹齢400年の巨木が立つ島は、白砂を一段と高く盛上げ、熊手で紋を描いた「有為」に浮かぶ。もう一つの島は石組と刈込で出来た苔の島。
その他
小書院 国重要文化財
改修中でした。優雅な数奇屋風書院といわれる。南面に茶室が付く。内部は、親王の居間であった「黄昏の間」が最高の室で、前室の「冨士の間」、三畳台目の茶室「八窓軒」と一畳台目の「無窓の席」の茶室を主に構成されている。
庭園
左端と中央の築山の間に架かる石橋「橋挟石」の一つは高々と建てられた立石で、瀧の象徴表現とされる。庭に最奥部の深山から水が流れ出て滝となり、渓谷の間を急流してやはて大海に流れ込む。蓬莱山・立石・白砂で小著表現がされている庭である。
「梟の手水舎」
奇岩による「蹲踞 つくばい」で南縁にある。四方にフクロウ(梟)の彫刻がある丸型の手水舎。
下部を亀型に配石して、屋形船に見立てた書院の脇を泳ぐ亀が甲羅に鉢を乗せる形を取っている。
茶室「八窓軒」国重要文化財
八つの窓があるのでその名がついた。八窓の開け閉めの具合で外光を調整し、室内の明るさを自在に調整する。
「五基八燈の燈籠」のうちの二つ
五つの燈籠は、天台宗の教義で、釈迦が説いたという五時八教の思想を取入れて配されている。
意匠の美
引手金具
特に大書院の矢の引手金具のデザインと桂離宮「笑意軒」の杉の引手金具とが酷似といわれ、他に欄間も同種のデザインといわれる。
桂離宮を造営した智仁親王と良尚法親王が親子であることから美の流れの継承によるとされている。
その他の金具の意匠、ほか、
七宝焼の冨士の釘隠しは色使いや山に掛かるかかる雲の形が一つずつ異なる。
上之台所
桁行八間、梁間六間半。門跡寺院の高僧や関係者のための厨房
曼殊院を愛した谷崎潤一郎からの寄贈の鐘
「 あさゆふのかね能(の)ひびきにふきそえよ われたつ杣乃(そもの)やまおろし能かぜ 」
「幽霊の掛け軸」
廊下続きにある。勿論撮影禁止である。
庫裏に戻る途中にある中庭
一文字の手水舎、井戸があり、庭の芯は松の根元の石
『黄不動』国宝 絹本著色 167.2×80.9cm 平安時代 12世紀
天台宗寺門派の祖である智証大師円珍が838(承和5)年に感得した金色不動王(黄不動)とそれを画工に描かせたという説話が残されており、円珍が拠った滋賀・園城寺には今なおそのオリジナルと思われる画像(国宝)が現存する。両者間には差異がある。
平成25〜6年に修理が行われた際に、絹裏から臍部に黄不動のミニコピーが薄墨で書かれているのが発見された。
仏像造立時に行われる御衣絹加持(みそぎぬかじ 画絹を清める儀式の痕跡と考えられ、仏画が信仰の対象であったことを如実に示す。
【国宝より引用】
弁天島に建つ天満宮と弁天堂
弁天池
弁天堂
1833(天保4)年に再建 弁才天像は、比叡山無動寺弁才天像のお前立ちといわれ、かって無動寺詣での信者は必ず曼殊院の弁天堂に参ってから山を登った。
天満宮
曼殊院の建築内では最古で室町時代末期とされる。「鎮守堂】で本尊は自在天。一間社春日造、屋根は檜皮葺、蟇股は上に松と牡丹
参考資料≪曼殊院・配付パンフレット・京都府の地名≫
門前の茶屋
May 6,2014 大野木康夫 source movie
参道
勅使門周辺
庫裏とその周辺
方丈
書院
庭園
青もみじとキリシマツツジ
山端平八茶屋
所在地 京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
紅葉の盛りにはまだ少し早かったです。
大半が曇っていて少し残念でした。
A camera
B camera
July. 2006 瀧山幸伸 source movie
梅雨時の曼殊院
No.1 Mar. 2006 瀧山幸伸 source movie
彼岸の曼殊院
庫裏
本堂
書院
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