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京都府京都市中京区 壬生寺

Mibudera,Nakagyoku,Kyotocity,Kyoto

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京都市中京区壬生梛ノ宮町31 壬生寺大念仏堂(狂言舞台) 重文 近世以前/その他 江戸末期 安政3(1856) "舞台 桁行13.9m、梁間5.9m、二階建、入母屋造、南面切妻破風付 背面下屋 桁行13.9m、梁間6.0m、片流れ、北面突出部附属 桟瓦葺" 道具蔵1棟、脇門1棟、土塀2棟、棟札2枚 19800126


May.05.2018 中山辰夫

壬生寺 本堂

本尊:延命地蔵菩薩 創建:991(正歴2)年 開基:快賢僧都 新撰組ゆかりの寺として知られる。

京都非公開文化財の特別公開が行われており、その中に本尊の地蔵菩薩立像(国重文)が含まれていた。

戊辰戦争や明治維新から150年を迎えた今年、新選組の近藤勇局長の胸像がある壬生寺には訪れるフアンが多いと聞く。

本堂は、江戸時代、1811(文化8)年に再建されたが1962年に焼失、1967年(昭和37年に現在の建物が再建された。

鉄筋コンクリート造、5間4面、入母屋造、本瓦葺、正面に3間の向拝付である。

            

本堂 堂内は撮影禁止である。

全景—パンフレットより引用

   

友禅画家のあだち幸さんが描いた色鮮やかな障壁画、長谷川等伯筆の屏風「列仙図 重文」や壬生狂言で使われる伊藤若冲が奉納した狂言面が並ぶ。

延命地蔵菩像「地蔵菩薩立像」—平安時代作 木造 像高:166.6cm

1962年の火災で本堂が全焼し、旧本尊の地蔵尊が焼失した。現在ある地蔵尊は、律宗の総本山である唐招提寺から移されたものである。

  

天井図

 

伊藤若沖奉納狂言面

 

書院庭園—京都市指定名勝

本堂の西、書院の南にある。南北に長い枯池、築山、右手奥に枯滝石組みがある。撮影禁止である。

壬生大念佛狂言

京都市中京区四条坊城南入ル

撮影:May.05.2018

壬生狂言の春の公開「壬生大念佛会」は、壬生寺の年中行事の法要で、狂言は本来この期間、朝・昼・夜の勤業の内の昼の勤行として、壬生大念佛講が、御本尊である延命地蔵菩薩に奉納するものである。

この法要は正安2年以来、約700年間も途絶えることなく、連綿と続けられてきた。

近年は民俗文化財としての評価が高まり、1976(昭和51)年、京都府下で国の重要無形民俗文化財第一号の指定を受けた。

狂言を演ずる大念佛堂「狂言堂」は、1856(安政3)年の再建であるが、綱渡り芸をする「獣台」や鬼等が飛び込んで消える「飛び込み」などの装置を持つ、他に類例を見ない特異な建造物として、1981(昭和55)年に国の重要文化財に指定された。

1983(昭和58)年から2年半をかけて解体修理が行われた。

壬生寺会館

二階が壬生狂言観賞席一階は壬生寺保育園で、二階が壬生狂言観賞席となっている。席は400名。

  

館内は全て撮影禁止である。

大念佛堂(狂言堂) 国重要文化財

案内

 

1856年に再建された。1985年に解体修理された。狂言はここで演じられる。

外観

    

舞台周辺

      

笈形がある。狂言が行われる。

狂言を演ずる大念佛堂「狂言堂」は、1856(安政3)年の再建であるが、綱渡り芸をする「獣台」や鬼等が飛び込んで消える「飛び込み」などの装置を持つ、他に類例を見ない特異な建造物として、1981(昭和55)年に国の重要文化財に指定された。

1983(昭和58)年から2年半をかけて解体修理が行われた。

壬生狂言

説明

  

現在上演されるものは30曲余り。一般の能狂言とは異なり、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ、すべての演者が面を付け、一切「セリフ」を用いず、無言で演じられるのが壬生狂言の形であり、娯楽的な演劇の中にも勧善懲悪、因果応報の理を教える宗教劇としての性格を残している。

収蔵する仮面は室町時代から現在の作まで、約190点あり、衣装・小道具は江戸時代のものも含めると数百点を越えるとされる。

 

本堂にある伊藤若冲が奉納した狂言面

 

演目は毎日変わる、一回5演目。PM13:00〜18:00頃まで。内容が分からないと苦痛になってくる。演者は地元のアマチュアーである

    

有名な演目の一つ「炮烙(ほうらく)割り」

壬生狂言の公開中、毎日の序曲として演じられる。

京都では2月の節分に壬生寺に参詣して、素焼きの炮烙(ほうろくとも呼ぶ)を境内で求め、家内一同の年齢、性別を書き、寺に奉納する風習が古くからある。これらの奉納された多くの炮烙をこの狂言で割る。奉納者は厄除海運が得られるという信仰がある。

 

舞台の延の端から端まで、1mを越える高さに積まれた炮烙が叩き落され割られる。一回に1000枚割られる。

   

その内容は次の通り−登場人物:炮烙売・羯鼓売(かっつこうり)・目代(もくだい)

 

演者

壬狂言を伝承して演じるのは、「壬生大念佛講」の人達で、講員は、壬生狂言がその職業ではなく、会社員、自営業などの本職をもち、小学生から80歳台の長老まで、おもに地元に居住する約40名(「衣裳方(かた)」と呼ばれる全員男性が狂言を演じる。

 

参考資料≪壬生狂言解説冊子、ウイキペテデイア、他≫


May 2012 中山辰夫

壬生寺とその周辺

この近辺は新撰組ゆかりの社寺が多い。

  

壬生寺

境内と近々建てられた千体仏塔

   

八木家住宅(新撰組壬生屯所旧跡)

京都市中京区壬生梛ノ宮町

京都市指定文化財

八木家は江戸時代に壬生住人衆(郷士)の長老を務めた旧家である。

壬生寺の北東に所在し、坊城通の西側に少し奥まって長屋門を開き、その後方に主屋が南面して建つ。

    

主屋は文化6年(1809)の建築。切妻造、平入り、桟瓦葺の建物で、表構えは通り庇を備え、虫籠窓がある。

1階正面には角柄のついた格子窓を開き、腰に下見板を張る。

長屋門は桁裄15m 、梁間3.9m 切妻造 桟瓦葺 文化元年(1804)の建築。 

  

京都に入った浪士隊は、八木家の離れに芹沢一派と近藤一派が入った。

離れの奥の間

  

入居以来、西本願寺に屯所が移るまでの新選組のさまざまな事件が、この屋敷で起きた。談合、酒宴、激論

さらに殺戮の場にもなった。

屯所跡のすぐ横は八木家の菓子舗「京都鶴屋」で屯所餅が好評

  

旧前川邸(田野製袋所)

中京区壬生賀陽御所町49

現在は製袋所となっているため公開されていない。

壬生川を過ぎた左手。出窓格子のある武家造りの長屋門。西向いの八木邸とともに新撰組の屯所となった。

    

新撰組が寝泊りする本営として使われた。八木邸同様、壬生郷士の建物である。

出窓格子は新撰組が改築した以降である。

    

当時の勝手口であった所がショップ店部分。柱や明かり窓に“らしさ”が残る。入場はここまで。

   

浪士隊が京都に入った頃、前川本家は、掛屋として公権力機関の御用達を務めていた。御所や所司代の公金

の出納を担当し、町奉行の資金も任されていた。こうした背景もあって旅宿に選ばれた。

前川本家では、分家の壬生村の前川荘司邸が洛外でもあり、ふさわしいと申し出たとされる。

通りに面してある“きんつば”で有名なお店、その一筋横が京都鶴屋と八木家

 

新徳寺 非公開

京都市中京区壬生賀陽御所町48

新徳寺は新撰組発祥の地ともいわれる。旧前川邸の隣に所在する。

臨済宗永源寺派の禅宗寺院

    

壬生村に来た浪士組の目付、取締、調役の三役と清河八郎の宿舎となった。

文久3年(1863年)、清河八郎が近藤勇らとともに京都に入り、浪士隊の本部を置いた所。この浪士隊の

中から京都残留組が分かれ、新撰組へとつながっていった。

    

新徳寺に祀られている地蔵尊は「屋根葺地蔵」と呼ばれている。新徳寺は通常は拝観できないが、門の所から

内部を覗くと、「屋葺地蔵尊万年寺」の石碑が建っていることがわかる。

もとは六角通猪熊にあった星光寺の像で、『星光寺新徳寺屋葺地蔵尊の碑縁起絵巻』(室町時代、土佐光信筆

重要文化財、東京国立博物館蔵)に、その像にまつわる霊験譚が述べられている。

建長年間(1249〜1256)の話。

六角櫛笥に、筆売りの尼が住んでいた。貧しいながら、星光寺の地蔵尊に参ることを日課としていた。

ある日、商売から帰ってみると、住居の屋根が吹き飛ばされていた。留守中ににわかに風が吹いて屋根を吹き

飛ばしたことに、尼は「お地蔵さまのご加護もあったものではない」と不平をもらした。

  

ところが、次の日に商売から帰ると、屋根は立派に葺き替えられていた。

隣の者に聞くと、どこからか法師が四、五人現れて、屋根をなおしたとのこと。

尼は改めて地蔵尊の加護を感じ、熱心にお参りを続け、最後には地蔵尊のお迎えで極楽往生を遂げたとされる。

この霊験譚により、星光寺の地蔵尊は、「屋根葺地蔵」と呼ばれて、朝野の崇拝を集めたと伝えられている。

この地蔵尊は前川邸を経て、新徳寺に客仏として祀られるようになったと伝えられている。

ただし、『星光寺縁起絵巻』には石仏とされるが、現在は木像なので、その霊験を伝えるために江戸時代に作り

直したものと思われる。

旧神先家住宅(きゅうかんざきけじゅうたく)

京都市中京区壬生賀陽御竹町

京都市指定文化財

新撰組ゆかりの地・壬生にあって、隣は「旧前川邸」、斜め向いは「八木邸」、正面は「壬生寺」である。

神先家住宅も、新選組が八木邸に滞在していた頃には八木家の隠居所として使われ、新撰組隊士も神先家に

泊まったことがあるとされる。

    

旧神先家住宅は、文政3年(1820)に建てられた武家屋敷である。

屋敷を建てた神先家は、元は足利家に使える武士であったが、後に京都・壬生に移り住んで後代々郷士になった。

式台を構えた住宅や主室の次の間からなる書院造りなど、武家屋敷風の上流民家としての特徴を備えており貴重。

   

現在は、京都清宗根付館(きょうとせいしゅねつけかん)として利用されている。

年4回の期間限定の公開では、江戸時代から現在までの根付コレクション約500点が展示される。

根付けは、タバコ入れ、印籠などの紐の端につけた飾り物。細かい彫物がある。

引用

    

邸宅内は撮影禁止である。数少ない武家屋敷の一つである

元祇園社・ 梛(なぎ)神社と隼(はやぶさ)神社

京都市中京区壬生梛ノ宮町

旧前川邸から綾小路通を東へ行く。境内には二つの神社が建立されている。

四条通に面した北門には、京都市による駒札が立っている。

   

梛神社(元祇園社)

    

貞観11年(876)京都に疫病が流行したとき、牛頭天王(ごずてんのう素戔鳴尊)の神霊を播磨国広峰から

勧請して鎮疫祭を行ったが、このときその神輿を梛の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。

後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀したとき当地の住人は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して

神輿を八坂に送った。これがのちの祇園会の起源といわれる。

当社は八坂神社の古址にあたるので元祇園社と呼ばれる。

  

境内の隼(はやぶさ)神社は延喜の制度の大社で、大正7年(1918)蛸薬師坊城からこの地に移祀された。

  

梛神社とともに厄除け、疫病払いの神である。

戻って、旧前川邸より約400m仏光寺通りを進む。

光縁寺(こうえんじ)

大宮通を過ぎた所。新撰組ゆかりの寺。旧前川邸とも近い。

    

寺の墓所に山中敬助ら18名の名を刻んだ新撰組隊士の墓が3基立つ

   


Feb.2007 瀧山幸伸 source movie

京都市中京区坊城仏光寺北入る

   

      

 

大念仏堂

     

  

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