京都府京都市左京区 無鄰菴
Murin an,Sakyoku,Kyoto city,Kyoto
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Dec.6,2020 柴田由紀江
紅葉最盛期でした。
当日夜、KBS京都の生中継があり、準備で少しざわついていました。
Dec.14,2015 瀧山幸伸
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国名勝
無鄰庵は明治二十七、八年頃山縣有朋の別邸として築造されたものである。 東部に三段よりなる滝を落し溪流を作り澤渡をおき、やかで溪流を広くして池の趣を現わし、再び水流となし池の流れと合して西に導く。水は常に浅くゆたかに小波を打って美しく流れ、二、三箇所に落水を作っている。 水辺の芝生は広い水面とともに明るい近代的庭景を与えるに役立っている。(文化庁データベース)
November 15,2014 大野木康夫 source movie
付近
April 22, 2013 野崎順次 source movie
京都府京都市左京区南禅寺草川町
名勝 無鄰庵
無鄰菴は昭和16年(1941)に京都市へ寄贈され,同26年(1951)には,庭園が明治時代の名園として,国の名勝に指定されています。
無鄰菴は,明治27年(1894)から明治29年(1896)にかけて明治・大正の元老である山県有朋(やまがた ありとも)が京都に造営した別荘です。
その名は,有朋が長州(山口県)に建てた草庵が隣家のない閑静な場所であったことから名付けられたといいます。
その後,有朋は京都の木屋町二条に別荘を構え,無鄰菴と号しましたが,さらに新しい地に好みの別荘を作りたいと考え,明治27年(1894),現在の地で無鄰菴の造営にとりかかりました。
工事は日清戦争の勃発により一時中断しましたが,翌年2月から本格的な工事を再開し,明治29年(1896)に完成しました。
有朋はこの別荘の庭園をこよなく愛し,多忙な公的生活の合間にも夫人を伴ってしばしば訪れましたが,その後大正11年(1922)に83歳でこの世を去っています。
敷地の大半を占める庭園(面積約3,135平方メートル)は,有朋自らの設計・監督により,造園家・小川治兵衛(おがわ じへえ)が作庭したもので,ゆるやかな傾斜地に,東山を借景とし,疏水の水をとり入れ,三段の滝,池,芝生を配した池泉廻遊式庭園です。
建物は,簡素な木造2階建の母屋,藪内流燕庵(えんなん)を模してつくられた茶室及び,煉瓦造2階建ての洋館の三つからなります。
洋館は明治31年の建立です。2階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり,ここで明治36年(1903)4月21日,元老・山県有朋,政友会総裁・伊藤博文,総理大臣・桂太郎,外務大臣・小村寿太郎の4人によって,日露開戦直前のわが国外交方針を決める「無鄰菴会議」が開かれています。
(京都市HPより)
アプローチ
入口付近
母屋
庭園
茶室
洋館外部
洋館内部、1階から2階
Nov.2012 中山辰夫
仁王門通りから取囲む外壁をめぐる。ともかく周囲を廻るだけでも疲れるほど長い。広い屋敷内の様子がつかめない。
無鄰庵は、明治27〜29年(1894〜96)に明治・大正の元老山県有朋が京都に造営した別荘である。
建物は質素な木造2階建の母屋、薮内流燕庵を模して造られた茶室及び煉瓦造2階建の洋館の三つからなる。
無鄰庵は昭和16年(1941)に京都市に寄贈され、同26年(1951)には、庭園が明治時代の名園として、国の「名勝」に指定された。
質素な表門である。
母屋
洋館は明治31年(1898)5月の建立であるが、2階には江戸時代初期の狩野派による金碧図障壁画で飾られた部屋である。
ここで明治36年(1903)4月21日、元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人によって、日露開戦直前のわが国外交方針を決める≪無鄰庵会議≫が開かれている。
茶室
庭園
国指定名勝
敷地の大半を占める庭園「面積約3,135㎡」は、有朋自らの設計・監督により、造園家・小川治兵衛(7代目)が作庭した
もので、緩やかな傾斜地に東山を借景とし疏水の水を取り入れ、三段の滝、池、芝生を配した池泉廻遊式庭園である。
July 2010 瀧山幸伸 source movie
京都府京都市左京区南禅寺草川町31
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周辺
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