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京都府京都市上京区 妙蓮寺

Myorenji,Kamigyoku,Kyoto City

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April 3,2026 大野木康夫 source movie

ソメイヨシノは満開でしたが、書院前のベニシダレはまだ咲いていませんでした。

                                          

 

 

 


August 20, 2022 野崎順次  source movie

 

京都府京都市上京区寺ノ内通大宮東入
本門法華宗 大本山
卯木山 妙蓮寺


大本山妙蓮寺は、宗祖日蓮大聖人より帝都弘通宗義天奏の遺命を受けた日像聖人によって、永仁2年(1294)に創建された。日像聖人が遺命を果たすため鎌倉より京都へ上られた時、五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、邸内に一字を建立して聖人を請じ、卯木山妙法蓮華寺と称した。これが妙蓮寺の縁起である。(柳の文字を二つに分けて卯木山という。)
その後、たびたびの法難にあい衰退していたが、応永年間(1420年頃)本迹勝劣、本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退出した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興される。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、皇族始め足利将軍義尚等の参詣も多くなった。また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開く。ここにおいて当寺の法運は隆昌を極め、山門の様式も格式高いものとなった。
天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮大聖人門下21本山は、ことごとく灰儘に帰し堺に立ち退いた。
天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。当時は1k㎡の境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。
寛政元年より漸次復興して、現在に至り、塔頭8ヶ院を有す。
(本寺パンフレットより)

パンフレットと現地説明板
     

山門 文政元年(1818)に、禁裏より拝領し建立する。両袖番所付山門は希にみる格調の高い雄姿を誇る。
     


鐘楼 元和3年(1617)の建立全国的にも数少ない本格的な袴腰型鐘楼で、日本建築史上、江戸時代を代表する貴重な建造物である。
     


本堂から本山社務所
              


表書院へ
             


十六羅漢石庭
表書院から眺める十六羅漢石庭。白砂は一般的には大海に見立てるが、こちらでは宇宙に見立てている。奥にある石庭で最も大きな石は臥牛石(がぎゅうせき)と呼ばれ、豊臣秀吉によって伏見城より移された名石である。臥牛石は仏教を開祖した釈迦が横たわっている姿に見立てられ、これ以外の石は、釈迦の弟子の中で最も位の高い地位となる羅漢(阿羅漢)に見立てており、こちらは15石となる。羅漢十六石の残りの1石は、観賞している自分自身のことであり、釈迦の説法を頂戴している十六羅漢となる。そして石庭全体で法華経の世界観を表現しているとのこと。
(「庭園ガイドby 繩手真人」ウェブサイトより)
                                          

奥書院の東側にある中庭には枯山水が造られ、黒玉石で枯流れを造っている。
(「庭園ガイドby 繩手真人」ウェブサイトより)
                      


社務所前にある「妙浄乃庭」は、平成になって造られた枯山水。枯流れに切石による石橋を欠けたミニチュアのような枯山水。
(「庭園ガイドby 繩手真人」ウェブサイトより)
            


妙蓮寺椿
   


現在日本唯一の大手水鉢
    

 


              

参考資料
妙蓮寺公式ウェブサイトおよびパンフレット


March 31,2018 大野木康夫 source movie

門前風景

    

庫裏・書院前のシダレザクラ

                  

本堂西側

                    


Apr.2, 2015 中山辰夫

京都市上京区寺ノ内通大宮東入

宗派:本門法華宗 本尊:十界曼荼羅(日蓮自筆と伝える)

日蓮の孫弟子日像が開基。

1294(永仁2)年、弘教のため東国より京都に入ったが、翌年西洞院五条にある洛内随一の酒屋・柳屋仲興が帰依して邸内に一宇を設け、日像を請じて妙法蓮華寺と称したのを起源とする。

1536(天文5)年、天文法華の乱で延暦寺衆徒の襲撃に遭い寺院を焼失、末寺である堺の法華寺へのがれた。その後、京都に戻り再興、秀吉の都市改造で寺地を与えられ、天正15年(1587)この地に落ち着いた。

収蔵庫に長谷川等伯一派の筆になる障壁画三十八面、本阿弥光悦筆の「立正安国論」一巻、松尾一切経など多くの文化財を所蔵する。

観賞式石庭で「十六羅漢の石庭」と呼ばれる。奥書院の四間に現代絵画家幸野楳渓筆の「四季の襖絵」がある。

案内と配置図

    

山門

1818年建立。御所より移築された。左右に両袖番所付である。 寺紋は三つの楓

          

鐘楼

1617年建立 袴腰型鐘楼 天明の大火の際に宝蔵とともに焼け残った。

         

本堂 桜の盛りと終焉

1739年、敦賀本妙寺の祖師堂を移築した。前方の拝殿は1792年建立

                    

庫裏 (寺務所)

     

奥書院付近

   

表書院

    

玄関から入場すると中庭が目に入る」

    

廊下を進む 奥書院には現代絵画家・幸野棋渓の「四季の襖絵」がある。長谷川等伯一派筆の障壁画(国重文)、他は収蔵庫納められている。撮影禁止!

    

十六羅漢の庭

枯山水庭園。江戸時代初期、桂離宮の造営に携わった妙蓮寺の僧侶 玉淵坊日首(ぎょうくえんぼう にっしゅ)作とし、16個の石からなり、その中の青石は四国産で、伏見城から移築した名石という。

日首が伏見城で豊臣秀吉と歓談中、褒美になにかやろうと言われて、「この庭にある臥牛石(がぎゅうせき)を所望したい。ただし、愚僧が妙蓮寺に帰り着くまでに運び込んでおいてほしい」と答えたところ、「よし、わかった」と。日首が帰ると、ちゃんと運び込んであったという逸話が残っている。秀吉の権勢を語る逸話である

          

妙蓮椿

1615(元和元)年、徳川家康が「余の花は 末寺なり 妙蓮寺」と賛じた椿の銘木は、妙蓮寺椿として知られル。1961(昭和36)年に焼失、現在は二代目である。

毎年11月〜3月末頃まで咲く。二輪残っていた。

     

境内に見る桜の名残り

      

かつては二十七塔頭にも及んだとされるが、現在は八院で、その多くがすぐれた庭を持つ。

常住院

    

本称院

   

残りは省略。


事務局用

 

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