京都府京都市右京区 妙心寺 退蔵院
Myoshinji Taizoin,Ukyoku,Kyoto city,Kyoto
Category |
Rating |
Comment |
General |
||
Nature |
||
Water | ||
Flower | ||
Culture | ||
Facility | ||
Food |
京都市右京区花園妙心寺町35 退蔵院本堂 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長7(1602) 桁行16.9m、梁間10.9m、一重、入母屋造、こけら葺 玄関1棟、棟札1枚 19670615
Feb.19,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
August 16, 2019 野崎順次 source movie
京都府京都市右京区花園妙心寺町35
臨済宗妙心寺派 妙心寺塔頭
退蔵院
Taizoin
パンフレットと現地説明板
山門から中へ
国重文 大玄関
国重文 方丈(本堂)
国名勝・史跡 元信の庭 室町時代 枯山水
さて本庭は、本院方丈の西部の書院に接した書院横脇の庭である。面積は約七十坪で、蓬莱式の枯山水となっている。そして本庭は西部の竹林や雑木林のを背景とした半円形の地割であり、室町末期の典型的な地割となっているが、すでにこの時代の枯山水が、本庭のような池泉庭園の様式をもつようになったことは、枯山水がもとの池庭式のものに還元される傾向を示すもので、これは枯山水としての、本来の抽象式のものが、具象性をとり戻すことであって、枯山水としての立場からは退化である。したがって本庭は枯山水でありながら池庭式となり、北西部に枯滝石組を見せ、西部中央に蓬莱山の石を組み、枯池中に亀島を設け、石橋三橋を架けてあり、今は荒廃したが、手水鉢のところに鶴石組があったのを利用して蹲踞としている。全体的には石組は傑出していて、よく室町期の作庭を語っている。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」退蔵院庭園より)
境内を進む。
陰の庭
陽の庭
さらに奥へ
余香苑
1963年(昭和38年)から3年の月日を費やして造園家の中根金作が作庭した昭和を代表する名園で、大刈込みの間から三段落ちの滝が流れ落ち,深山の大滝を見るような風情がある。水琴窟もある。
(ウィキペディア「退蔵院」より)
April 16,2017 大野木康夫 source movie
退蔵院庭園(名勝・史跡)、本堂(重要文化財)
この日の目的は満開を迎えた余香苑のベニシダレザクラ
入り口付近の3本
茶室大休庵前の1本
池越しの風景
帰路
May 5, 2015 野崎順次 source movie
京都府京都市右京区花園妙心寺町35
臨済宗大本山妙心寺
退蔵院
(Taizo-in Temple, Ukyo-ku, Kyoto City, Kyoto Pref.)
アプローチ、JR花園駅から花園東陵を経て妙心寺へ
パンフレットと現地説明板
山門から進む。
国重文 玄関と本堂
国史跡名勝 退蔵院庭園(元信の庭)
それから
陰陽の庭
さらに
余香苑の一部からあずまや、つくばいと水琴窟、売店、茶席大休庵
昭和の名庭、中根金作作庭「余香苑」
02−退蔵院 通年公開 国重要文化財所有
今から600余年前の1404(応永11)年に越前の豪族波多野出雲守重通が無因和尚(妙心寺三世)に帰衣し建立した寺で、妙心寺寺院内で屈指の古刹である。
本堂(附 玄関)が国重要文化財、院内には国宝の瓢鮎図がある狩野元信築庭による庭園は史跡名勝である。
山門と前庭
妙心寺塔頭の中でバランスの整った美しい形状を残した「薬医門」とされ、江戸中期に建設されたもの。前庭は、京都府有形文化財に登録されている。
大玄関
唐破風造りの変態で非常に珍しいとされている玄関。破風の曲線が直線になっており、ちょうど袴の腰のようになっていることから「袴腰(はかまごし)造り」と呼ばれている。1966(昭和41)年に国の重要文化財に指定。
江戸初期の富豪・比喜多宗味居士(ひきたそうみこじ)が寄進したもので、法要儀式その他高貴な方々以外は使用されなかった。
本堂(方丈)
国重要文化財
桃山時代の方丈形式本堂の代表例。前後唐破風造りの玄関を付した方丈建築で、内部には渡辺了慶筆の障壁画二十八面がある。
建築:1602(慶長7)年 桁行:16.9m、梁間:10.9m、一重、入母屋造、こけら葺 江戸時代、宮本武蔵がここで修業した話も残る。
方丈の襖絵と杉戸絵
狩野光信の高弟であった狩野了慶の作で、探幽と共に活躍した狩野派の絵師。
この襖絵は高台寺の屏風絵や西本願寺の襖絵などとともに、桃山後期の優れた遺品とされている。
「瓢鮎の図」
国宝
日本最古の水墨画「如拙筆」 ちいさな瓢箪で大きなナマズをいかに捕えるか—という禅の問題。
悟りの不可思議を描いた図上には、京都五山の高僧31名の賛(回答)が並ぶ。
元信の庭
国史跡名勝庭園
約八十坪の狭い地割に設けられた廻遊式に観賞式を加えた石組本位の枯山水庭園。蓬莱石を中心とする巨石を組み、池庭的に表現されている。
作庭者は狩野元信といわれ、『都林泉名勝図会』にも紹介されて早くから室町期の名園の一に数えられている。
庭の背景には、やぶ椿、松、槇、もっこく、かなめもち 等、常緑樹を主に植え、一年中変わらない美しさ「不変の美」を求めたとされる。
余香苑
紅枝垂れ桜で超有名!JR東海の宣伝ポスターにも採用された。花園天皇のご法愛の深さが今も余香となって漂うという意味から名付けられた昭和の名庭。
設計は造園家の中根金作氏(昭和の小堀遠州とさえいわれる。ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニングで連続日本一に輝く足立美術館庭園も設計された)
1963(昭和38)年に着工し、3年の月日を費やして完成した。結構な広さである。一年を通して、紅しだれ桜や藤、サツキ、蓮、金木犀、楓などが彩る。
庭園の瀟洒な入口門 ナマズを形どった鴨居
春の鮮やかな紅枝垂れ桜は、大野木氏のページで味わって頂きたい。紅葉も見事とか。
陰陽の庭
門を入ってすぐ、右側にある。敷砂の色が異なる2つの庭は、物事や人の心の二面性を伝えている。陰の庭に8つ、陽の庭に7つ、合計15の石が配されている。
苑内
≪参考≫
禅寺で婚姻が正式に認められたのは明治時代の後半で、退蔵院に「奥さん」として入ってこられたのは、現在の住職夫人のお母さんが初めて。
当時の退蔵院は、無住のボロ寺で、廊下の板がはずれ、釘が出ていたりで、屋内でも下駄をはいていたとか。戦時中は先代住職が出征したため、夫人が女一人で留守番をし、空襲警報の度毎に本尊の首だけ持って防空壕に逃げ込んだという。
庭にある石(余香苑)
和歌山県有田川上流にダムが建設される予定があり、その地域にあった「花園村」が水の底に沈むという話を聞いた先代住職が、「ご縁がある!」とひらめき、そこの石を頂いて庭を造ろうと、トラックを乗り付けて、寺に石を運ぶという日々を一年間続けられた。そしてある程度石を運んだところで、近隣にお住いの造園家・中根金作氏に相談され、孟宗竹林の林であった跡に「余香苑」が生まれたようです。今ある石のほとんどはこの時運ばれた紀州石です。≪パンフレットより)
妙心寺退蔵院
2013年春のJR東海キャンペーンのポスターは妙心寺退蔵院余香苑のシダレザクラでした。
この日も雨にもかかわらず、多くの人でにぎわっていました。
山門からの順路は通常とは違い、直接余香苑に向かいます。
余香苑入り口のシダレザクラがポスターに使われた桜です。
2本目のシダレザクラ
池から桜を遠望
三本目のシダレザクラは接待所の近く
接待所から方丈(重要文化財)には直接行けるようになっています。
帰路
退蔵院
Taizouin
退蔵院
Taizouin
July. 2006 瀧山幸伸 source movie
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中