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京都府京都市左京区 音羽川

Otowagawa,Sakyoku, Kyoto city,Kyoto

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Feb.27,2018 中山辰夫

音羽川 後安道橋〜雲母坂周辺まで

京都市左京区北東部

修学院道近辺からは比叡山がよく見える 手前は御茶屋山。後方が比叡山

 

修学院離宮の表門前から禅華院を過ぎ、後安道橋から音羽川沿いを歩く。「雲母寺跡」や「きささ坂」を確認するだけの散策である。

 

音羽川は京都市左京区東部を流れる河川。東山の比叡山を水源とし、主学院の横を流れて一級河川高野川に合流するまで、流路延長約5.4kmの一級河川である。音羽川という名の川は市内に数か所あるので「修学院音羽川」とも呼ばれる。

     

中流域の右岸には17世紀中頃に後水尾上皇の指示で造営された修学院離宮と、離宮の中御茶屋に隣接する林丘寺(音羽御所)が、左岸には鷺森神社や天台五門跡の1つに数えられる曼殊院がある。

また、1990年代に京都市役所により整備された、砂防技術の歴史と施設を体験見学できる「砂防学習ゾーン」があり、その沈砂池横には比叡山への登山道「雲母坂(きららざか)」の入口がある。

音羽川の左岸は修学院離宮の域で、金網塀が廻らされ、延々と続く。離宮内風景が結構見られる。中離宮の南門や隣雲亭も見える。

         

しばらく進むと曼殊院にもゆける右折の道がある—そばにある案内 (修学院より約15分)

      

更に進む

   

雲母橋(きららばし) 別名:音羽橋 雲母坂の起点である。

     

音羽川に架かる雲母橋を渡るとすぐ右側に「親鸞上人旧跡」の石碑が建つ。

  

そのすぐ先に雲母坂の登山口がある

   

雲母坂

平安時代から比叡山と京都を結ぶ主要路で、近辺の花崗岩に含まれる雲母がきらきらと輝くことや、比叡に雲が湧くことからこの坂が雲を生むと見立てたことからこう呼ばれるようになった説が残る。

平安時代には最澄、法然が、鎌倉時代には親鸞が、中世は比叡山の僧兵が通り、その後も利用された。千日回峰の一部の道にもなっている

勅使が比叡に参向に使ったため「勅使道」、修行僧が通るので「禅師坂」ともいわれた。他に「不動坂」と種々呼ばれた

比叡山頂まで約5.7㎞の道のりで比叡山への最短距離で穴太や坂本の古道に通じていた。

雲母寺跡

    

登山口の左横に石碑が建つ。石碑の後方に立つ柵は修学院のものと思うが不明である。

雲母寺は元慶年間(877〜84),相応(831〜918)が開いた天台宗の寺院。延暦寺に属し本尊に不動明王を祀った。不動明王像は、伝教大師 最澄の作という。

明治に入り廃絶。この石標はその跡を示すものである。なお,当初は山中に建てられていたが、1993(平成5)年に現在地に移建された。

雲母寺の本堂(雲母 不動堂)と本尊・不動明王は赤山禅院に遷され、境内の雲母(きらら)不動堂に不動明王 を安置している。

鎌倉時代作とされる石仏は禅華院に安置されている。

音羽の滝

平安時代には和歌にも詠まれた「音羽の滝」が流域に存在したとされる、現在では砂防ダムとなっている

比叡の山なる音羽の滝を見てよめる「落ちたぎつ 滝の水上 年つもり 老いにけらしな 黒き筋なし」壬生忠岑 (古今和歌集)

音羽川に沿って進む。堰堤や貯水池などの砂防・治山施設がつらなる。

     

その奥手に説明板がある。

  

川一帯は白川砂の産地で、昔から石切り・採石が盛んだったが、江戸時代には音羽の滝は無くなっていたようにも菊。

音羽川流域の大半は深層風化した花崗岩で構成され、高野川に合流するまでの扇状地では土石流が頻発していた。

このため、1937(昭和12年)に砂防指定され、1940年にかけて砂防堰堤5基が設置された。その後、1972(昭和47年)に大規模な土石流が発生したため砂防・治山施設が拡充され、2010(平成22年)に 砂防堰堤8基、沈砂池1箇所、治山堰堤20基が整備されるに至っている。

関連工事が続いており近づけない。

この地域は砂防学習ゾーン・モデル地区として整備されており公園となっている。

この地帯は花崗岩でできており風化や侵食に弱く下流に土砂災害をもたらしてきた。

   

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