JAPAN GEOGRAPHIC

京都府京都市東山区 両足院

(Ryosoku-in Temple, Higashiyamaku, Kyoto City, Kyoto)

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池泉廻遊式庭園
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 Culture
 
4つの庭園と長谷川等伯作品
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May 7, 2022 野崎順次 source movie

建仁寺塔頭 両足院

京都国際写真展の会場の一つとして特別公開していた。奈良原一高の写真作品が大書院で展示され、また、茶室が公開された。ただし、方丈は座禅を組む人以外は入室できない。従って、四面ある庭のうち、「方丈前庭(東庭)」と「唐門前庭」は見られない。府名勝「書院前庭」は植木の手入れ中だった。

となりの西来院門前の黄菖蒲が満開
    

庫裏と方丈を結ぶ廊下に面した坪庭「閼伽井庭」
        

大書院には奈良原一高「ジャパネスク 〈禅〉」が展示されている。
2020年に逝去した日本を代表する写真家のひとりである奈良原一高は、13歳で終戦を迎え、「不毛」それ自体を戦争が終わった新しい日常を生きる手がかりとした。
戦後の日本では日本文化が否定され、自分たちの文化を知らずに育った奈良岡は、1962-65年、ヨーロッパ滞在中に日本文化の魅力に触れる。自身にとって魅惑的な未知の領域である日本文化を撮影しようと、帰国後に《Japanesque》シリーズを制作。本展では、《Japanesque》シリーズのひとつである〈禅〉を展示する。曹洞宗大本山總持寺(神奈川県横浜市)や總持寺祖院(石川県輪島市)にて、禅僧や僧堂等を被写体とした作品の一つひとつには、力強さの中に静謐な時間が流れる。
「時として僕には写真を撮る行為そのものが禅に近づいてゆく道程のような気がしてくる」と語る奈良原の貴重な作品群が、京都最古の禅寺・建仁寺山内の両足院で展示される。
(KYOTOGRAPHIE 2022 公式ウェブサイトより)
        


府名勝 書院前庭 池泉回遊式観賞庭園
10世・雲外東竺の元に参禅した茶道の薮内流5代・竹心紹智(1678-1745)の作庭による。また、茶室「臨池亭」「水月亭」の露地も兼ねている。水字形の細長い池があり、周囲にさまざまな植栽、石組、飛石、石橋が見られる。池を挟み2基の灯籠が呼応するように立てられている。
(京都風光「両足院」より)
               

池の北側には織田信長の弟織田有楽斎好みの如庵の写し「水月亭」、その右に六帖席の「臨池亭」が並ぶ。
    

「臨池亭 (りんちてい) 」
近代の実業家・大村梅軒 (彦太郎) 好みの六畳席になる。1926年、高台寺別邸にあった同家の茶席「臨池亭」を寄進し移建した。広間の席 (6畳) 、控室 (2畳) 、水屋がある。
(京都風光「両足院」より)
        


「水月亭(すいげつてい、暦の席)」
大名・茶人の織田有楽斎好みの正伝寺の茶室「如庵(じょあん)」(国宝)の写しになる。1912年 (1910年とも) に建立された。東京に移された茶室を偲んで建てられている。三畳半台目下座床。腰張には中国の暦を使う。室内を広く見せるため、床の間の脇に三角形の鱗(うろこ)板を入れ、斜めの壁を作る。中柱に続く板壁の火灯形の刳り貫き、掛込天井が特徴になる。如庵との違いは、道庫がなく、有楽窓に代わり下地窓が開けられている。水屋 (3畳) に物入、板問の流しがある。安土・桃山時代一江戸時代初期の織田有楽 (うらく) は、織田信長の実弟で、利休七哲の一人だった。茶道有楽流を創始する。建仁寺の正伝院を再興、茶室「如庵」を建てた。
(京都風光「両足院」より)
      


その他
   


January 12, 2019 野崎順次 source movie

両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西(みんなんようさい)禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継ぐ龍山徳見(りゅうざんとっけん)禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。

 現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。知足院は、龍山徳見禅師の遺骨が知足院に葬られてからは、徳見禅師の法脈を継ぐ当院3世文林寿郁(ぶんりんじゅいく)の両足院・一庵一麟(いちあんいちりん)の霊泉院などの黄龍派寺院の本院でした。創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院(つちえん)として建仁寺開山堂・護国院の中にありましたが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。

 また、両足院は、室町時代中期まで「五山文学」の最高峰の寺院でありました。江戸時代に入っても10世雲外東竺など当院の住持が、五山の中で学徳抜群の高僧に与えられ最高の名誉とされる「碩学禄」を授与されたこともあり、「建仁寺の学問面」の中核を担いました。

(KYOTO design ウェブサイトより)

年に数回特別拝観できるが、今回は、第53回京の冬の旅非公開文化財特別公開である。

パンフレット

    

閼伽井庭

       

方丈南の庭園

   

府名勝 方丈と書院の東庭(前庭)

今本庭を一覧すると、本庭の地割の特色は北西部が書院の北に流れが入り込み、北東の茶亭付近も入り込んで二又となっているのと、東部山畔がゆるやかに大きく出張っていて、江戸中期の池庭出島の先駆的様相が示されている。すなわち、江戸中期の池庭地割は、必ずと言ってよいほど中央が出島となるが、その度合いが強いほど時代が降るのが例である。このように考えると、本庭はゆるやかな出島であるだけに、中期としては初頭の作庭であることを語っていて、竹心紹智の四十代の作庭と見てよい。それのみでなく、方丈の北東角のところも池中に出島となっていて、池庭の地割というものが、まことに正直に時代を語っているのである。

さらに本庭の築山部の石組や、池庭の護岸石組などを一覧すると、これまた江戸中期初頭らしい手法を見せていて、小石を多数に用いることや、小刈込を多く配することもそれをよく語り、さらにまた、全体の石組がはなはだしく弱くなっていたり、角のある庭石の尠ないこともよく時代を語っている。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」両足院庭園より)

                          

書院とガラス戸越しの庭園

           

毘沙門堂あたり

      


Jan.14, 2012 野崎順次

京都府京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町591

臨済宗大本山建仁寺塔頭

平成24年度 新春特別拝観 1月1日〜17日

両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西(みんなんようさい)禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継ぐ龍山徳見(りゅうざんとっけん)禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。 現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。知足院は、龍山徳見禅師の遺骨が知足院に葬られてからは、徳見禅師の法脈を継ぐ当院3世文林寿郁(ぶんりんじゅいく)の両足 院・一庵一麟(いちあんいちりん)の霊泉院などの黄龍派寺院の本院でした。 創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院(つちえん)として建仁寺開山堂・護国院の中にありましたが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。

パンフレット

    

建仁寺境内

  

両足院の山門

              

唐門と唐門前庭

                      

庫裏と方丈を結ぶ廊下に面した坪庭「閼伽井庭」

       

桃山時代の枯山水庭園の方丈前庭

         

方丈内部、室中に二重格天井を備え内陣に本尊「阿弥陀如来立像」を安置する。方丈は江戸時代寛永年間(1624-1643)に再建されたもの。竹林七賢図屏風(長谷川等伯筆)が展示されている。

    

方丈東庭園

                 

書院は江戸時代寛永年間(1624-1643)に再建されたもの。雪梅雄鶏図(伊藤若冲筆)などが展示されている。

              

書院前庭は京都府指定名勝の池泉廻遊式庭園である。梅雨の頃には、半夏生が、いきいきと生い茂る。初夏になると徐々に色を変え、まるで白い可憐な花が咲いた様に池辺を彩る。池の北側には織田信長の弟織田有楽斎好みの如庵の写し「水月亭」、その右には六帖席の「臨池亭」が並ぶ。

                

両足院鎮守 毘沙門堂

本尊秘仏の毘沙門天像は、鞍馬寺毘沙門天の胎内仏だった。戦国時代、比叡山が織田信長によって焼き討ちにあった際、鞍馬の僧が尊像の安全を危惧し、比喜多養清(室町将軍の茶家、筑前黒田家京都御用達)のところへ、尊像を疎開させた。関が原の会戦に黒田長政が、関東方として出陣する際、この尊像を内兜に収めて奮戦し、勝利を収めたといわれている。そのあと尊像は代々黒田家で信仰されたが、維新の変革で明治10年ごろ当院に寄進された。

                   

参考資料

両足院HP

京都風光・京都鴨川風光HP


事務局用

 

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