京都府京都市東山区 京都霊山護国神社
(Kyoto Ryozengokokujinja Shrine, Higashiyama-ku, Kyoto)
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May 2010 撮影/文 野崎順次
京都府京都市東山区清閑寺霊山町1
坂本竜馬ら維新の志士が眠る
撮影: 2010年5月1日
謹みて当社は明治元年の創立に係り、嘉永六年米艦渡航以来の国論沸騰のさなかに在って、敢然衆に率先、尊皇の大義を唱えて世論を啓発し、機運到って征幕の軍興るやこれに従って諸方に転戦、身を持って維新の鴻業を翼賛しながら、その成就を見ずして中道にたおれ、一命を国に捧げたる志士の精忠を、宏謨成れるの日、畏くも明治天皇は深く御嘉賞遊ばされ、その霊を祀らんがために一社の創立を仰出されたのに始まるのである。
有難き聖旨を拝し、枯骨に及ぶ天恩の忝さに感泣した京都府及び山口、高知、福岡、熊本、鳥取、久留米の諸藩、澤三位家、徴兵隊は、御沙汰書に東山之佳域と仰せられた霊山の山上に各々祠宇を建設した。
これ実に当社の創祀、ひいては我国招魂社の嚆矢であって、爾来当社の祭祀及び営繕には国費を供進せられるのを例とし、社号は特に官祭の二字を冠して『霊山官祭招魂社』と称した。
アプローチ
東大路通から護国神社参道を東山へ上る。
京都霊山護国神社。境内内は主として大東亜戦争の戦没者の霊を祀る。
竜馬にちなむ高知県の物産では、ゆずサイダーがおいしかった。
東山斜面の明治維新史蹟「旧霊山官修墳墓」には、明治維新の誕生につくした志士たち1043名の霊(みたま)を祀る。
高知県招魂社と吉村寅太郎墓。
幕府勢力に抗戦した事件として、1863年の天誅組の変と生野の変がある。
天誅組は、中山忠光・吉村寅太郎が主導し南大和で蜂起。 生野の変は、平野国臣(くにおみ)が但馬(たじま)の生野で蜂起したもの。
いずれも敗北したが、討幕の志士たちに大きな影響を与えた。
勤皇・佐幕と対立抗争をくりかえしていた幕末に、「日本はひとつにまとまらなければならない」という大きな視野から、新しい時代を構想していたのが坂本龍馬。
薩長連合(1866年)を成立させ、海援隊を組織し、世界情勢や貿易の必要性を唱えたが、同志中岡慎太郎、下僕藤吉とともに、1867年京都近江屋で暗殺された。
坂本龍馬 齢33歳、中岡慎太郎 齢30歳、藤吉 齢25歳、新しい時代の礎を築き、その大成を見ることなく、志半ばにしてこの世を去った現在、二人の功績を称えて陵内に銅像が立つ。
十津川志士。
長州志士のお墓が累々と続く。高杉晋作も。
長州藩は討幕運動の拠点。1864年長州藩は大挙して蛤御門(はまぐりごもん)で幕府軍と闘った。これはまれにみる激しい闘いで、京都の町811町、3万余戸の民家が焼失したほどだった。
この闘いで、福岡久留米藩の真木和泉守(まきいずみのかみ)に、卒いられた長州軍は、久坂玄瑞(くさかげんずい)・来島又兵衛(きじままたべえ)・入江九一・寺島忠三郎という人材を失い、大きな打撃を受けた。
桂小五郎・幾松墓所
京都には島原や祇園など多くの遊里があり、志士たちと芸妓たちとの間で多くの”恋”が生まれました。
その代表的なものが桂小五郎(後の木戸孝充(たかよし))と幾松です。
幕府に追われていた小五郎をかくまったところから恋が芽ばえ、二人は夫婦となり維新を迎えました。
水戸藩招魂社、熊本藩招魂社、福岡藩招魂社、鳥取藩招魂社と続く。
再び、龍馬・慎太郎の墓。お墓参りの人が増えていた。若い人や外国人も。
昭和の杜とは昭和63年、大東亜戦争に従軍し、生還した我国の戦友達が相計り、昭和史に残した足跡と、従軍した事実を永く後世に伝えんと、祖国の繁栄と世界恒久平和の願いを込めて平成9年11月20日、当社の佳域に建設されたものである。
参考資料 本神社HP
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