京都府京都市東山区 左阿彌
Saami.Higashiyamaku,Kyoto city
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Food | 未了 |
Aug.21.2015 中山辰夫
京都府京都市東山区 円山
円山公園の東端部にある。敷地1000坪を有する老舗料亭である。
東山の庵に左阿彌が誕生したのは、1615(元和元)年のこと、織田信長の甥である織田頼長により、安養寺の末寺として建てられた。「大坂夏の陣」のころである。
頼長の父は、茶人の織田有楽斎。頼長も又、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたといわれる。
江戸時代、安養寺のある東山あたりは、遊興の地として大変なにぎわいだった。中でも左阿彌は、安養寺「円山の六坊」の一つと数えられ、文人墨客の集うところとなり風流の限りが尽くされたと伝わる。
左阿彌が料亭を始めたのは1849(嘉永2)年。明治維新以降、御前会議にも使われた。
有栖川総督宮や山県有朋参与が止宿され、頼山陽先生や土田麦僊画伯によってこよなく愛された。
1907(明治40)年には「東山茶会」の主会場に使われた。
さらに、川端康成や志賀直哉の作品『暗夜行路』・『古都』にも左阿彌がでてくる。京都を描いた名作の作家らも、ここで京都の風情を楽しんだ。
左阿彌の料亭としての創業
現在の円山公園内になる1886年以前、円山に安養寺の塔頭の、多蔵庵春阿弥、延寿庵連阿弥、花洛庵重阿弥、多福庵也阿弥、長寿院左阿弥、勝興庵正阿弥、があり「円山の六坊」と呼ばれていた。塔頭は後に遊覧酒宴の宿となり、僧坊は貸し席、料亭に変わっていった。重阿弥では、赤穂浪士により、吉良上野介の首を討ち取ることが決定した円山会議が開かれている。世阿弥は、連阿弥、重阿弥を合併し、京都で始めてのホテル、也阿弥ホテルになった。春阿弥は、1877年に温泉場となり、1906年に焼失しました。左阿彌も明治維新以降の御前会議に使われました。
六阿彌のうち左阿彌のみが今に至るまで料亭として残った。
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